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【三原郷の落人伝承はホンモノか?】千葉県南房総市 布野・磑森・五十蔵地区 [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

自分のルーツの地のひとつ、自分流にいうと「我が魂の故郷」南房総市和田町の旧北三原村地区、歴史書や郷土史などでは「三原郷」と呼ばれる地域、その中でもひときわ山深い地域である布野・磑森・五十蔵は、同じ和田町の中でも、海側の人からは「山奥」「隠れ里」と呼ばれ、その挙句、一部の人には「平家の落人村」と言われているのです(何気にムカッ!)
まぁ~少なくとも平家の落人村というのは、ぶっちゃけハズレでしょう
ちなみに三原郷とは、三原川の上流地域にある地域一帯、具体的には黒岩村、小川村、上三原村、小向村、磑森村、五十蔵村、布野村、これら7つの村のことで、これら7つの村が1889年に合併して、朝夷郡北三原村となったという、つまり「旧北三原村=(ほぼ)三原郷」ということになります、まぁマニアックすぎてどうでもいいことだけどw
で、そのうち、確かにその山奥の
五十蔵村には落人伝承はありますが、正直自分もその真偽についてはいまだによく分からないです
ただこの辺りは、平安時代から桓武平氏/板東平氏の三浦党の勢力範囲であり、その三浦党の豪族(主にウチの眞田/佐奈田)がいた地域、それがゴッチャになって、海側の人達に、妙な畏怖の目で見られてたんじゃないのかな?
まぁ平氏といっても、歴史を見ても分かるように、平安期以降も案外武家として平然と生き残っています、
また、ウチの家紋にもあるように、元々桓武平氏の流れなのに、源氏のシンボルマークともいえる(笹竜胆)を権力者から拝領紋として与えられてたりしてるしな~、
ウチの系統である三浦党は、石橋山の戦いにもあるように、一族郎党ひっくるめて源頼朝公側につき、共に戦い、鎌倉幕府の立上げに貢献、武家として後も存在しつづけたようです
同様に、平氏発祥の武家は意外に多く、逆に物語によくあるような「平氏、平家は源平合戦で破れ、その全てが逃げるように山奥でひっそり暮らしてる」なんてことは、実は少ないようなのですわ
ちなみに平家の落人伝説は、物の本によると国内で132箇所あるそうですが、その全てが全てとも、伝承として怪しいとさえ言われているほど、実は曖昧なものらしいです
何より源平合戦で滅んだのは平清盛さんとこの「伊勢平氏(平家)」であり、自分らのような「板東平氏」「桓武平氏」ではないんだな~これがw

・・・なんでこんな話をしたかというと、、
最近カノジョと一緒に一足早い春を求め、久しぶりに南房総市和田町に花摘みに訪れ、、
そこでとっても人懐っこい花農家のオジーチャンに話しかけられ、、
自分も何気に世間話として「2代前までの先祖は、あの山の奥の旧北三原村(もっと具体的な地名は言ったけど)の山間にずっと住んでた」と話したら、そのオジーチャン曰く、あの辺りは「平家の落人村」だと言いやがった!・・・もとい、言われたのですわ
ダレがオチウドじゃい!
ジーチャンひっぱたくぞ!(´゜ω゜)
お陰で帰り道、カノジョにはずっと「オチウドオチウド」とからかわれた、、
ちなみにオジーチャン、「あの辺りは落人で武士だから頭いいんでおっかねぇよ~」と。。
・・・オチウドはいいとして、、
ご先祖さん達、
一体この界隈で怖がられるようなこと
何やらかしたんだ?(汗


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takaki-i

平家は壇ノ浦の戦いで敗れて九州には落人伝説が沢山あるようですが、わざわざ関東の奥の千葉にまで落ち伸びてくるような事があったのでしょうかね・・・
by takaki-i (2009-02-19 23:09) 

さなゆき

>takaki-iさん

そうなんですよね、、
平氏+山奥、、で、→落人って連想ゲームになっちゃったんでしょうねぇ。。
でもここにはそこまで書きませんでしたが、話をした花農家のジーチャンの反応が、案外マジメに怖がってたので、、よっぽどあのあたりに住む連中は昔っから畏怖の目で見られてるんだろうな、と、、なんで?って感じです(^_^;)
by さなゆき (2009-02-20 13:32) 

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