SSブログ

あぁ涙(ノ∀`)、豪族のウチがモロ出てくる郷土史 [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

モロに三原郷のオイラ関連の住所や遠縁の住所が出てる
でもこんなんインターネットに出していいのか?(汗
まぁネットに出てる以上、公のものだし、、ここに抜粋
(※元々の誤字脱字もそのままコピペしてます)

すいません、ベタベタな自愛ネタで、、
でもウレシイのです、昔っから先祖達がガンバリながらも間違いなく生き抜いてきたというのを知ることが。。
(ノ∀`)

元のページは
南房総資源辞典 和田町史>近世の村々 -布野村
http://www.mboso-etoko.jp/dictionary/article.php?flg=2&code=1573

サイト名は「南房総資源辞典」TOPは↓
http://www.mboso-etoko.jp/dictionary/

一一 布野村
2 伝   承
(2) 真田氏とその遺跡
 三原の地に、いつごろからか、相模国の名族三浦氏の流れを汲む真田氏が在地の豪族として君臨していました。
 中三原の正文寺、同じく唐ケ作の諏訪神社の創建。そして、真田氏と深い関係があるだろうと推測される和田町布野一七二真田政夫氏(木左衛門)、同二〇七真田高次馬(新田)、同三六七真田明氏(松葉)の三氏ですが確かな物証がなく残念です。古老の口伝や、戸田七郎氏著『南総正木太平記』によりますと、真田氏とのかかわりは、次のように伝えられています。
 真田氏は、三原城(神田の城山)を築き、菩提寺と鎮守の社も建ててこの地を支配したのです。安元・治承(一一七五~八一)のころ、時の真田氏の頭領、真田源吾という人が、中三原に禅宗の一祠を建てて一族の菩提寺としました。更に、真田氏は貞応年間(一二二二~二四)には和田町中三原唐ケ作に諏訪神社を創建して、地域との連携を図りました。
 正文寺に残っている真田氏の遺跡は、祖師堂の向かって左手の裏山の中腹にある洞窟の中に刻まれている磨崖仏四基です。「これは明らかに禅宗当時の真田氏の墓で、その所以は磨崖仏の中の一基に、日蓮宗では使用しない阿字(久)が刻まれているからです。これでこの磨崖仏は改宗前の禅宗当時の真田氏の墓地に相違ない」と、住職の斎藤貞譲氏はいわれております。
 更に、薬師三尊像(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)の磨崖仏がありますが、その一部が削り取られたようになっていますが「この仏像は薬師三尊像で、薬師如来の信仰は日蓮宗にはないので、日蓮宗に改宗したときに毀釈した残像でしょう」と、齊藤氏はいわれます。
 また、正文寺の東方、三原川を越えた小川原の中に経塚と呼ば九る土塁がありますが、これは正文寺が日蓮宗に改宗された際に禅宗当時の「経典類焚書の地」と言い伝えられ、人々は近寄らず今は荒地となっています。
 安元・治承のころから鎌倉時代を経て、大永・享禄のころまでおよそ三五〇年の歳月が流れています。その間真田氏は、中三原の城山に城を築き、城内に八大竜王(難陀・跋難陀・娑翔羅・和修吉・徳叉迦・阿那婆達多。摩那斯・優鉢羅竜王)を祀って五穀の豊穣を祈り、寺谷に寺を建てて祖先の菩提を弔い、唐ケ作に諏訪神社を建てて氏族の鎮護としました。特に、典型的な地域に根を下ろした豪族でした。もちろんその間には、多少の盛衰はあったでしょうが、それでも連綿として三〇〇年以上も家系を伝えていたものと思われます。
 現在の和田町小川の「とうしろ台」辺りに拠った境井氏が里見に反旗をひるがえした時には、真田民は里見の将正木時綱に味方をしてともに戦ったものと思われます。その時、真田氏の氏神諏訪神社にも累が及んで荒廃したものでしょうか、永禄年間(一五五八~七〇)に修築が行われています。
 やがて境井氏を減ぼした正木氏は、正木郷、三原郷、長狭郡を領有しますと、領域内の豪族や有力国人地侍層で正木譜代の直属家臣団を形づくっていきましたが、その一員として、三原の在地領主真田隼人佑の名があります。あるいは大永、享禄のころの真田氏の当主であったかも知れません。
 正木氏はその後、大多喜、勝浦を前進基地として、東上総に進出しますが、三原の豪族の真田氏は房州出所の直属家臣団の一員として特に重用され、真田隼人佑をはじめ一族の主だった者たちは、大多喜や勝浦へと移って行きました。もちろん、分家、庶家の中には、そのまま三原にとどまって家系を保った者もあったはずです。そして、天正一八年(一五九〇)正木氏の上総撤退時には、再び古里の三原に帰った真田一族があったと思われます。
 ま来中三原宿の台地の三原城吐は、大永・享禄(一五二一~一五三二)のころから慶長一〇年(一六〇五)までのおよそ七、八O年間、正木氏の居城あるいは館の吐でありました。
 なお、正木兵は、中三原の入口を守る城山、小川のとうしろ台の要害は、ともに砦、見張り、詰城、控え城として活用していて、むしろ全体が三原城であったとも考えられます。とうしろ台城といわれるこの城祉には、城井と思われる湧水が残っており、駒場、根方、堀の内、宿、向根、馬場などの地名が今なお残っています。
 和田町布野三六七番地真田明氏の墓には、真田家の家紋六文銭(六連銭)が刻されている石塔があります。
 刀や槍などが数多く保存されていたそうです。

 3 現   況

 町の中央部で、南は小向、西は上三原、東は仁我浦飛地および真浦の最奥部と接しています。行政区は上区に属しています。山間集落で主な集落は柄井後、合戸、布野でほとんど農林業地帯です。
 鎮守神渡社(祭神弥都波能売神)があります。布野は南北に長い地域で地形的に北部を合戸地区、南部の上三原の竹の中、鬼ケ崎、鳥井畑を含めて、柄井後、布野は 「布野下組」という行政組織ができており、通称「布下」とも呼んでいます。鎮守として山神社(祭神大山祗命)があります。
 旧北三原地区には、つり橋が三か所ありました。「川崎橋」「内田橋」と、この「柄井後橋」です。
 昭和三年一一月吉日に最初のつり橋がかけられ、旧本街道の柄井後と鳥居畑がつり橋によってつながりました。この写真は二代目のつり橋です。
 昭和五三年に小向ダム建設に伴って現在の永久橋に架け替えられました。
 なお県営一般農道整備事業として、合戸地区に幅員五メートル延長一、三九七メートルのアスファルト舗装農道が平成五年度に完成しました。


nice!(2)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

nice! 2

コメント 4

駅員3

こんなにしっかり家の歴史が残っているなんて素晴らしいですね[ひらめき]
by 駅員3 (2009-07-22 18:39) 

さなゆき

>駅員3さん

郷土史なんで、かなりマニアックです(w
しかし一般的な歴史ドラマなどと違い、リアルな話は異様に生々しく、、先祖達の苦悩が見え隠れしており、なんだか切ない気持になりますです。。(´ノω;`)
by さなゆき (2009-07-23 13:44) 

takaki-i

真田家は安房だけでなく結構全国区の著名人です。
それだけに郷土史的にルーツが残っているのでしょうね。自分の家の歴史が誇りある物として語られるのは羨ましい事です。

ところで昨夜、BS熱中夜話ガンダムナイト見ましたよ。
前にも書いたようにガンダム世代では無いので暑いトークには一寸着いていけませんいけないところも有りましたが・・・
さなゆきさんは直ぐに判りました^^トークは大分カットされているようですね、次回お楽しみです。
by takaki-i (2009-07-25 13:02) 

さなゆき

>takaki-iさん

全国区、、そんなに全国に眞田さんっているんですかね?(汗
やヴぁいっすね(汗汗
・・・しかし、古さだけならウチは負けませんよ(w

今までの人生で、親戚以外の眞田さんに会ったのは一人だけ、三重出身の方でした、最後までその方のルーツは、ウチらの三浦氏族系か、信州系か、その他かまではわからなかったですが、、
顔がなんとなく似てたので、「これからはオイラのことをお兄さんと呼んでください!」と二人で酒の席盛り上がってました(w

ちなみに今日、三浦氏族の房総眞田の一番古いと思われる墓にお墓参りにいってきましたっ!
今日明日には、画像をUPしますですっ(`・ω・´;)ゞ

熱中夜話のガンダム、、やはりオイラ出てましたか、、
何だか一昨日辺りからBS2見れるお客さん達から、番宣でオイラを見てズッコケたとかビックリしたとかいう連絡がちらほら、、
さらにmixiのマイミクの方々からは、様々な連絡をいただきました
・・・来週が、オイラの審判の日です((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
by さなゆき (2009-07-25 20:52) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。