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新たな武士の台頭 【「ねずさんの ひとりごと」より転載】 [日本の隠された歴史]

以下、ねずさんの ひとりごと」blogより転載
http://nezu621.blog7.fc2.com/



新たな武士の台頭

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「武士」と書いて「もののふ」とも読みます。
「もののふ」というのは「物部」で、「もののべ」とも読みます。
「もの」というのは、「えもの」つまり武器を指します。
ですから「物部」は、武器を扱う氏、つまり武門の長であったわけです。

時代が下って奈良時代になると、菅野真道らが編纂した延暦16(797)年の「続日本紀」の巻八に、「文人武士は国家の重んずる所」という一文が出てきます。
これが我が国における「武士」という言葉の初出になります。

太宰府における防人や、貴族の持つ荘園の警固兵など、古代における武士は、いまの時代にあてはめれば国軍の兵士や、民間の警備員のような役割の者達だったといえます。

ところが平安時代後期になると、貴族による全国的な支配秩序が崩れ、それに代わる私的な権力を持つ者達が現れました。
もともと、貴族の持つ荘園は、貴族や大寺院が自分たちの力で開いたものではなく、地方の有力農民などが開墾した農地が寄進されてできたものです。

従って名目上所有者は貴族ですが、実態は有力農民たちが管理運営していたものでした。
農地は平安時代を通じて、さらに開墾されていきますが、そうした農地は必ずしも貴族や大寺院に寄進されず、農民達が自分たちの手で守り抜くものとなっていきます。

 はじめのうちは、土地は開墾すればいくらでもあるものでした。
けれど時代が進むと、当時の技術で開墾できるところは開墾しつくしてしまい、点在していた農地は、その境界を他の農地と接するようになります。

すると、治水利水権や、土地の境界線をめぐるもめごとが起こる。
貴族や大寺院の土地ならば、もめごとの調停は、貴族や大寺院側が行うけれど、それが私田だと、そうはいきません。
自分たちの力で解決しなければならない。

そこで農民たちは互いに結束して武装し、半農半武の武士団を形成しました。
律外の民としての武士のはじまりです。
彼らは自分たちの領地を守るために、一所懸命となって働きました。
食うか食われるかの戦いの中で、彼らは勇敢であることを誇り、卑怯を軽蔑し、武士の誉れを大事にする存在となっていきました。

そしてより大きな保護を得るために朝廷の武士(いまでいったら国軍)である源氏、平氏という大きな「家」に帰属し、そこで本領を安堵してもらうかわりに、いざというときには一命を投げ打って働く奉公をする御家人、つまりその一家に所属する集団となっていきました。
新たな「武士」の誕生です。

つまり、言葉は同じ「武士」でも、鎌倉以前の「武士」と、鎌倉以降の「武士」では、その意味合いがまるで異なるのです。
鎌倉以前にも武士はいました。
防人とか北面の武士などといった存在です。
けれど、それらは、いまで言ったら国の軍隊であり、地方公共団体の警察官のような存在です。

ところが鎌倉以降の武士は、そうした公的軍人や警察官等と異なり、庶民を代表して立ち上がった人達です。
つまり「領主」です。
刀を持てば武士というわけではありません。
また領主とともに戦いに出向く領民は郎党であって武士とは一線を画した存在です。

江戸時代、「鎌倉武士のようだ」という言葉は、武士に対する最上級の褒め言葉とされていました。
その鎌倉武士が尊敬されたのは、彼らが農地共同体の小領主であり、かつ、勇敢で領民思いであり、誰からも尊敬を勝ち得るだけの存在となっていたからです。

そしてそういう武士達が、元寇という外圧を機に、国を守るために敢然と立ち上がり、蒙古の大軍を跳ね返して、日本という国を守り抜いた。
そのことが結果として、本領を安堵するだけでなく、日本を護る、すなわち「公」のために忠義をまっとうする、つまりより大きな正義のために生命をも投げ打つ「武士」として、我が国に完全にその存在を定着させていったわけです。

このことは、民の側から見た武士達が、私利私欲ではなく、「公」という概念に仕える公明正大な存在となっていったということも同時に示しています。

ところが、日本を二分する武士勢力である平家は、源氏によって討たれました。
なぜでしょう。

平家は、伊勢平氏の棟梁であった平忠盛の長男清盛が、保元の乱、平治の乱で軍功をたて、武士としては初めて太政大臣に任ぜられたとされています。
軍功があって太政大臣にまで出世したのなら、武家の棟梁として申し分なしです。
何も「平家を討とう」などということにはなりません。

にもかかわらず清盛が民の顰蹙を買い、結果として家を滅ぼす原因となったのは、清盛が朝廷に食い込んでいったことそのものと、大きな因果関係があるといわれています。

それが何かと言うと、なるほど清盛が乱に勝ち抜いたことは事実なのですが、その際に彼は西日本の水軍を傘下におさめていたのです。
当時の水軍というのは、国際私貿易の担い手でした。
支那や朝鮮に船を繰り出し、私的交易を図って巨富を得ていたのです。

宝船の絵といえば、七福神が乗っかっていて、船には金銀財宝や米俵が満載されている図が描かれていますが、まさに国際貿易は、海難事故というリスクはあったものの、成功して帰還すれば、巨利を得ることができました。

少し時代は前後しますが、宝徳年間に明に渡った商人の楠葉西忍の記録によれば、明で250文で買った絹糸が、日本に持って来ると5貫文(5000文)の値で売れ、日本で10貫文で仕入れた銅が、明で4050貫文で売れたそうです。
刀剣類や漆器などは、やはり2〜30倍の値段で売れたと書かれています。
つまり、私貿易は、それだけボロ儲けできる商売だったわけです。

そうした利権を手中に収めた清盛は、朝廷に金をバラまき、地位を上昇させました。
なにせ時代は平安後期です。
律令制度の令田制度は崩れ、朝廷や貴族達の税収も減っていた。
そこへ登場した清盛は、まさにカネのなる木をもって、政治権力を買い取っていったわけです。

今風にいえば、清盛の治世は、まさに経済最優先の治世であったということができるかもしれません。
こうして政治権力を得た清盛は、娘の徳子を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言われる時代を築いたわけです。

要するに清盛の力の源泉は、国際交易によって得た財力にあります。
従って清盛は、政界に力を持てば持つほど、ますますその財力を強化する必要に迫られます。
そしてそのために、清盛は、ますます国際交易に力を入れました。

このことは、交易の相手国であった支那、朝鮮との国交の親交化にもつながります。
当初は、商売のための財物が日本に流入するだけだったものが、次第に人的交流も強化されていきます。
はじめのうちは、それなりの人格者や高僧、あるいは技術職人などが渡来しますが、年月を重ねるにつれ、戦乱の続く大陸から難を逃れ、親戚を頼って日本に渡来する者たちも増えていきます。

私は、支那人や朝鮮族が、必ずしも悪人ばかりとはいいませんし、中には本当に尊敬できる人格者も数多くいるし、また普通の生活をし、郷に入ったら郷に従うまっとうな人達が大半を占めるということは、否定するつもりはありません。
けれど、人肉を食し、人を殺したり集団で弱い者、女性などをかどわかし、暴行したりする不逞な者達がそうした渡来人の中に数多く混じっていたであろうことも、これまた否定できない事実です。

結果として、それまでの平安日本の社会ではあり得ないような悲惨で残酷な事件が、国内で頻発する。
農作物や家畜が、半ば公然と盗まれる。
そうした治安の悪化は、民の怒りとなって蓄積していきます。

とりわけ東国の武士達からみれば、流れ者が乱入してきて治安を乱す。その治安の乱れ(犯罪行為)は、そのまま本領を安堵すべき武士の不名誉となっていきます。

そうした世の中の乱れを産んだ平家には、当然に民の怨嗟の声が充満してくる。
そしてその声は、はじめは小さかったものが、次第に世論となり、「平家討つべし」の大合唱が起こりはじめます。

そして一部の武士達が、源氏の嫡流である源頼朝を担ぎ上げ、中央政府を仕切る清盛に対して反乱を起こす。
はじめは小さな勢力でしかない頼朝派は、乱をすぐに鎮圧されてしまうけれど、「頼朝立つ!」の報は、東国を駆け巡り、ついには平家を滅ぼし、鎌倉政権の樹立に至っています。

こうした一連の流れは、似たようなケースが、我が国の歴史には度々登場します。
そしてそのことが、我が国の歴史が、だいたい150年から200年単位で、開国と鎖国をくり返す歴史となっています。

日本は、明治の開国から、今年で144年です。
開国政策は、我が国に江戸日本では考えられなかったような富をもたらした一方、大東亜戦争の焼け野原を招き、そして戦後復興という、未曾有の経済成長をもたらしました。

けれどその一方で、日本人の常識、経済的自己の利益よりも公に尽くす、あるいは人と人とが仲良く暮らす、互いに信頼を基礎におく安定した社会構造を大きく破壊してきました。
そして昨今では、日本的「和」よりも目先の利権を最優先する政党が、政権与党に座るという事態まで招いてしまっています。

そしてそのことで、日本社会は、わずか三年で富を海外に流出させたのみならず、人々の生活は苦しくなり、巷には政権与党に対する怨嗟の声が満ちるという情況になってきています。
そしてその一方で、民の幸福や日本社会の安定を願う、保守主義者ないし日本主義者が、大きく成長してきています。

思うに、いま立ち上がりつつある保守勢力、あるいは日本主義者、日本派、名前はいろいろな呼び方になっているけれど、その日本派の人々は、いわばかつて、民の私権を守るために立ち上がり、公に尽くすことを最大の使命と考え、我が国を守るために、自発的に立ち上がった人達です。
ということは、いま目覚め、立ち上がりつつある人々は、かつて領民を守るために立ち上がった鎌倉武士同様の、現代版「武士」といえる人達といえるのではないでしょうか。

もちろん社会構造が違います。
ですから、現代版の「武士」たちは、刀を腰に二本差すようなことはしません。
けれど、その思想と行動は、常に日本人としての日本の民とともにある。
それが武士です。

そして、つい最近まではバラバラに行動していたその現代版「武士」達は、いま安倍総裁という棟梁を得て、新たな日本つくりの段階にはいろうとしています。
新しい時代のはじまりです。

歴史は繰り返すといいます。
当面は日本は大乱となるかもしれません。
けれど、それは新たな日本を築くための産みの苦しみなのです。

私達は、誇りある日本の明日を信じて、いま、立ち上がったのです。
勝ちましょう! 衆院選!!


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