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武士と忠義のお話 【転載】 [日本の隠された歴史]

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武士と忠義のお話
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1758.html
ねずさんの ひとりごと」より転載


江戸時代の武士にとって、最大級の賛辞が、「まるで鎌倉武士のようだ」というものでした。

どういうことかというと、実は鎌倉武士というのは、小領主たちであったからです。
つまり、戦国武者や、江戸武士、あるいは大昔の防人(さきもり)などとは違った存在です。

もともと古代の律令日本においては、武人というのは、兵のことで、今で行ったら自衛隊や警察などのことを指します。


さて、もともとは日本は、武器を手にして戦うという文化がなかった国です。
実際、2万年近く続いた縄文期の遺跡からは、対人用の武器に相当する遺物が、いまだにひとつも発見されていません。「ひとつも」です。

これは世界史的、人類史上的にみて、もすごいことです。
日本には何々貝塚と称されるものなど、縄文時代の遺跡は全国に数万カ所あるけれど、いまだに、ただのひとつも対人用兵器としての武器が発見されていない。
そのかわり、灌漑農業の跡などは、多数発見されています。
要するに日本人というのは、二万年の昔から、戦って奪ったり殺したりすることより、互いに助け合い、協力しあって、生産することを是としてきた民族だという、これがなによりの証拠です。

ところがそんな日本に、いまから三千年くらい前、大きな変化が起こります。
この頃の支那は、戦国時代でした。
まさに民族同士で殺し合いや殺戮がさかんに行われていた時代です。
この連中が日本にも流れてきた。

誰も武器を持たないで、みんなで助け合って生きている国に、武器を持ったあくどい連中がやってくる。
最近の日本も武器の所持は禁止で、誰も武器など携帯しませんが、その日本に、サブマシンガンを持った悪党が登場したらどうなるでしょうか。
警察さえない、あっても武器をもたないとすれば、もうやりたい放題です。
そして現実に、そういうシチューションで、インカの帝国は完膚なきまでに滅んでなくなってしまいました。

縄文時代後期、大陸で武器を手にして戦っていた者の一部が、日本に流れてきました。
日本人は武器を持たない。
彼らは武器を持っている。

そこで何が起こったか。
みなさんは、縄文式土器、弥生式土器ということを学校で習ったと思います。
縄文式土器がたいへん装飾性豊かあるのに対し、弥生式土器はきわめて簡素です。
そして弥生時代になると、突然、武器を手にした人形の焼き物なども登場しています。

要するに、漢鏡や金印のような平和な権威の象徴だけが日本に来たのではなくて、大陸から、人殺しや窃盗犯、粗暴犯たちが、武器を手にして日本に流れてきたのです。

彼らは、日本でありとあらゆる犯罪行為をしでかしたことでしょう。
火付け、盗賊、暴行、傷害、殺人、それらは日本人にとっては今も昔も犯罪行為です。
けれど大陸の獣人たちにとっては、強い者が弱い者から奪うのは、あたりまえの常識です。

獣人たちは暴れ回りました。
最初のうちは、日本人はただ被害を受ける一方だったことでしょう。
けれど、さしもの日本人も、いつまでもやられっぱなしというわけにはいきません。

自分たちも武器を習い、さらに持ち前の研究熱心さで、ついには武器を自作し、その使い方まで一生懸命練習して修練し、獣人たちなどよりもはるかに優れた武器を持ち、上手に使う方法までも開発します。
要するに自衛のために日本人が立ち上がった。
弥生時代のはじまりです。

そして人々は、助け合い、ひとつにまとまって、大和朝廷を築きました。
そして太宰府を置き、そこに防人(さきもり)を配置します。
これがようするに、これが古代の武人です。
古代の武人というのは、いまでいう兵のことを指すのです。

そして遣隋使、遣唐使のあと、日本は大陸との国交を絶ちます。
なぜ断ったのか。
簡単です。
百害あって一利無しだったからです。

経済ベースで言えば、交易は儲かります。
支那の絹糸は、日本に持ち帰れば20倍の高値で売れたし、日本で産出された銅は支那で5倍、時代はすこしあとにになりますが、日本刀など30倍くらいの高値で支那で飛ぶように売れています。
大陸との交易は、経済的には巨富をもたらしたのです。

けれど、百害あって一利なしだから鎖国したのです。
なぜか。
儲かるだけなら良いのです。
物品にあわせて、ろくでもない支那人や朝鮮人が日本にはいってくる。
そして窃盗、強盗、殺人、強姦、挙げ句が人食いまでやってのける。

たとえ交易が、経済的な豊かさをもたらすとしても、治安が悪化したら、民の生活の安心を損ねます。
何も泥棒や強姦被害に遭ってまで、金儲けなどする必要はない。
そんなことくらいなら、畑でも耕して大根や菜っ葉でも作っていた方が、はるかに安心です。
なにしろ人は、食えれば生きていけるのです。
贅沢をするのではなく、質素でもいいから安心して幸せに暮らしたい。
あたりまえの感情だろうと思います。

そして日本は、支那、朝鮮との国交を絶つことによって、和心豊かでミヤビな平安文化を花開かせました。
紫式部の源氏物語など、世界最古の女流文学が誕生できたのも、女性が安心して生きられる鎖国日本という、平和な世の中だったからこそです。
そしてこの平安期に、古代の兵とは異なる、中世の武士が日本に誕生します。

世の中が平和になると、民衆は、少しでも生活を豊かにしようと、荒れ地を開墾し、田畑をひらきます。

これはひとりでは、とてもできるものではありません。
なぜなら、土地を開発し、水路を引くといった土木作業は、たいへん多くの労働力を必要とするからです。
さらに農業に書かせないのが、利水です。
上流の村の人たちが、勝手に川の水をせき止めてしまったら、下流の田畑は干上がってしまいます。
当然、そこには利害の調整が必要となります。

そしてこの調整のためには、村を代表するリーダーの存在が不可欠です。
そしてそのリーダーたちが、村々の小領主として育っていきます。
さらにリーダー同士で結束し、もっと大きな邦をつくる。
さらに大きな新田を開拓する。

こうして広大な新田を保有する新領主が誕生します。
けれど、開発した新田は、そのままではやはり税がかかります。

そこで、新領主たちが何をしたかというと、国司や朝廷の貴族などに田畑を寄進し、税を免除してもらうようにはたらきかけました。
要するに、節税対策です。

こうして税を払わなくてよい農地が広がると、当然、そこには財力が生まれる。
そしてもっと広い無税の土地がほしくなる。
こうして育った封主のなかの、有名なのが天皇の血筋をひく、源氏や平家でした。

なかでも関東の豪族として勢力を持ったのが、平将門です。
彼は関東一円を統一し、「新皇」を名乗りました。
同時期、瀬戸内では藤原純友が大阪や淡路、愛媛を襲い、さらには太宰府まで襲って叛乱を起こします。

こうした武装集団に対抗するためには、朝廷も武装集団を雇わなければなりません。
乱はまもなく鎮圧されますが、こうして台頭したのが、中世の武士たちです。
中世の武士というのは、全員が領主さまです。
要するに、馬に乗って鎧を着ているのが武士で、そのまわりにいる歩兵たちは、武士とはいいません。
ただの「家人」です。

つまり、平安後期から鎌倉時代にかけての武士というのは、今風にいえば、農園の経営者たちで、彼らは自分の管理する農場を安堵してもらう代わりに、いざとなったら、戦いに身を投じた。
これが「御恩と奉公」です。
誤解を恐れずにいうなら、要するに農場安堵という利害関係によって形成されていたのが、御家人と呼ばれる武士たちであった、ということです。

こうした武士たちのなかで、はじめに頂点に立ったのが源氏です。
源氏の家は天皇家の血筋で、なかでも八幡太郎義家(源義家)は武勇の誉れ高く、前九年の役、後三年の役などではなばなしい武功をあげています。
ところがあまりに義家が人気があるため、逆に彼は朝廷の貴族たちから警戒されてしまいます。
おかげで、武勲を上げたのに、肝心の報酬をもらえなかった。

困った義家は、自分の領である河内(大阪)を、武勲のあった部下たちに報酬として分け与えました。
これが御恩となり、義家の人気はますます高まりました。

信用を得た義家のもとには、より多くの農園主たち(武士)が集まりました。
義家の勢力は拡大し、実力者となった義家は、次男の義親(よしちか)を対馬の守に任じます。
これがいけなかった。

義親が対馬で叛乱を起こしたのです。
朝廷は父親の義家に追討を命じますが、残念なことに義家は病のために死んでしまう。

で、義家に代わって対馬の義親を討ったのが、平正盛(清盛の祖父)です。
平氏は、この一件で力を得、瀬戸内の水軍を傘下におさめて、支那の南宋と貿易を始めました。

この南宋というのは、軍事力よりも経済を重視した国で、もっとも後年、あまりに軍事をないがしろにしたために、元に滅ぼされてしまうのですが、平清盛が日宋貿易をしていた頃は、いわば南宋の全盛期です。

交易は派手になり、平家一門は莫大な経済力を身に付けます。
そして朝廷に食い込み、ついには太政大臣にまでなってしまう。

ところが、宋との貿易は、やはり国内に古代と同じ問題をひき起こします。
国内に支那人、朝鮮人が多数流入し、国内の治安が悪化したのです。

民衆の生活が脅かされている一方で、平家一門が巨額な経済力で贅沢の限りをつくしている。
当然、全国から怨嗟の声が満ちてきます。

そうして起こったのが、源頼朝の挙兵です。
頼朝がなぜ京都ではなく、鎌倉に政権を開いたのか。
その理由は、京の都が、在日支那人、在日朝鮮人たちによって、どうにもならないくらいに汚染されていたから、と考えると、辻褄が合います。
頼朝は、朝廷の貴族となることよりも、武家の棟梁としての道を選んだのです。

こうして鎌倉幕府が開かれるのですが、鎌倉時代における武士というのは、御家人と呼ばれる馬に乗った騎馬武者、領主たち、いまでいえば農場主、もっというなら中小企業の社長さんたちであって、馬上の武士の周りにいる小物たちは、もちろん戦(いくさ)となれば一緒に働くけれど、武士ではなく、家人たちです。

そしてその武士たちと幕府とは、御恩と奉公の関係によって結ばれています。
所領の安堵と引き換えに、いざとなったら鎌倉幕府に応援に駆けつける(いざ鎌倉)という関係だったわけです。
ということは、武士たちの根底にあったのは、もちろん戦(いくさ)となれば、武勇の誉れ高く働きますが、どちらかというと所領の安堵という経済的利害得喪が主君と奉公人との関係の根底にあったということができます。

この鎌倉幕府には、大きな欠陥が内蔵されていました。
それが「田分け」です。
相続をあるいみ民主的な均等配分方式にしたため、世代がすすむと、領主たちが、その所有する土地が狭くなり、食えなってしまったのです。
結果、世代交替のたびに、生活はどんどん苦しくなり、ついに借金もぐれになってしまう。
どうにも生活がなりたたなくなる。

このため武士の中に、大きく二つの流れができてきます。
ひとつは、再び王政復古して、朝廷を中心とする世の中に戻そうという考え方。
もうひとつは、分割された所領を再び大きな所領に合併させて、再び大領主となっていこうとする方向です。

前者は朝廷と結びつきます。
古代のような、天皇を中心とした世の中にもどそうという方向に進んだのです。
ところが、肝心の朝廷が、いろいろあって南北に分裂してしまいます。
こうして南北朝時代がはじまる。

ここで彗星のごとく登場したのが、楠正成です。
楠正成は、天皇という国の「公」を代表する存在に、一命を賭し、これを守ろうとします。
そのため、鎌倉方の数万の軍勢に、たった500騎で戦いを挑む。
そこに利害得喪はありません。
「公」への忠と、そのために我が身を捧げようとする「義」だけがそこにあります。
要するに、ここに損得勘定を超えた「公」への忠義の観念が登場するわけです。

「忠」というのは、読んで字の如くで、我が心の中心に置くものです。
その中心に置くものが、自分だけがいい思いをしたいという個人の利得であったり我欲なら、それは我儘(わがまま)というものです。支那人、朝鮮人の行動原理と同じです。

ところが、個人の利得を超えて、よりおおきな「公」、つまり多くの民衆のために尽くすのは、「忠」です。
そして「忠」のために、我が身を捧げる、それが「義」です。
「義」というのは、羊に我と書きますが、古代において羊は神への生贄(いけにえ・捧げもの)です。
我が身を神への捧げものとして生贄にする。
それが「義」です。

つまり「忠義」というのは、我が身を、命さえも惜しまずに、より大きな「公」に捧げるという観念をあらわします。
その忠義の心が、七たび生まれ変わっても変わることがない。
これが「七生報国」です。

ここで、国のために自己の犠牲を厭わず、むしろ積極的に命を捧げるという、規範意識が生まれています。
それが後年、武士の「忠義」の道となり、武士道の根幹として育っていきます。

一方、楠正成などが、忠義の道へと進む一方で、相変わらず利益重視の勢力は、足利尊氏や新田義貞などの新興勢力のもとに結集し、足利幕府を構築します。

この足利幕府というのは、ある意味経済団体的側面を持っていて、三代将軍足利義満の時代には、早々と日明貿易(勘合貿易)をはじめています。

おかげで足利幕府は、たいへんな金持ち政権となるのですが、同時に支那人、朝鮮人が再び日本国内に入り込み、国内の治安の悪化します。
結果、戦乱の世が始まる。
戦国時代です。

この戦国時代、武士は、大きく変質します。
古代の武士は、今風にいえば、徴兵された軍人たちでした。
中世における武士は、農園主たちでした。
武士が、裕福で堂々として、強くてかっこよかった時代です。
で、戦国時代になると、誰でもかれでも刀や槍を持てば、その日から武士となった。

おかげで農民の出の羽柴秀吉が武士になり、大名に出世して、ついには関白太政大臣にまでなっています。
ところが、その秀吉は、全国的な刀狩りを行い、武士と、農工商民を完全に区別するようにします。
目的は、世の中を戦乱の世に戻さないようにするためです。

こうして武士の身分が固定される、新たな時代に移り変わります。
同時に、足利幕府が再開した海外交易は、徳川家の鎖国政策によって、停止となりました。
この鎖国というのは、物流に関しては、限定的開国です。
ただし、国の出入り口を絞ることによって、人の出入りを厳しく監視しました。
つまり、支那、朝鮮人たちが、好き放題日本に入ってくることを防いだのです。

おかげで江戸時代には、早々に国内治安が回復し、再び日本文化が熟成していきます。

そして身分を固定された武士たちは、あらたな規範として、藩という家に対する「忠義」の観念を深く持つようになりました。
鎌倉武士が裕福な領主たちだったのに対し、江戸武士は貧乏だけれど「忠義」という精神性、つまり武士道を基本に持つ人たちです。

ところで、江戸武士の忠義の対象が、上様(殿様)と思うなら、それは間違いです。
江戸時代に限らず、室町時代にも戦国時代にも、伝統的に続く武士の習慣として「主君押込」というのがあるのです。
主君が暗愚なら、お家のために、家老らが謀って、主君を座敷牢に閉じ込めたり、隠居させたりしています。
有名な上杉鷹山も、一時は主君押込騒動にあっています。

要するに日本社会では、古来、殿様は絶対君主ではないのです。
家(藩)という「集合体を代表する者」なのです。
家(藩)というのは、一般民衆も含む都道府県や市町村です。
その市町村民や、県民を庇護し守り育てるのが武士の仕事です。
殿様が暗愚で、そうした自覚を持たず、わがままで身勝手な存在であれば、その殿様を座敷牢に押込めてしまうのも、家臣たちの忠義と考えられていたのです。
ですから日本の殿様は、支那朝鮮の王族たちなどとは、根本的に異なる精神性を持つ存在です。

こうした忠義の観念は、江戸武士の基本的マインドとして、徳川300年の治世の中で、わが国武士に完全に定着します。

ところが、幕末になると大事件が起こる。
黒船来航にみられる欧米列強の脅威です。

これに対抗するためには、それまでの「藩」という名の家を超えた、もっと大きな、国としてのまとまり、つまり古代日本が行った「公」という概念のもとに、日本が一致協力して結束していかなければならない。

こうした必要から、明治にはいると、それまで武士だけの専売特許だった忠義の観念が、日本人の一般庶民にまで共通する観念として定着します。
それまで、藩への忠義だった忠義心が、今度は、国家への忠義へと、大きく広がりをもつようになったのです。

そして忠義の名のもとに結束した日本人は、国をひとつの家となし、国民が一致団結して、欧米に学ぶべきものは学び、国力をつけ、ついには、国土を焼土にしてまでも、欧米列強の植民地化圧力をを跳ね返しただけでなく、東亜諸国の植民地からの解放まで実現させています。
その日本の行動の根底にあった日本人の共通観念こそが、まさに「忠義」の観念であったわけです。

実はこの観念は、占領下に置かれたあとの現代日本にも、いまだ、色濃く、日本人に息づいています。
すなわち、より大きなもののために全力を尽くしてこれに尽くす。
たとえば国際ボランティアに参加する、被災地の復興ボランティアに赴くといえば、普通の日本人なら、「ああ、すごいなあ」と感心します。

つまり、より多くの人々のために尽くしていくこと、その対象が、より広く、大きな存在であるほど、その行動は偉大なこと、良いことだと考えられています。

ただし、です。
ひとつ気をつけなければならないことがあります。
忠義というのは、あくまで一般町民や農民の観念ではなく、もともとが「武士の観念」である、という点です。

なぜそのことが重要なのかというと、徒手空拳の丸裸では忠義は成立しないからです。
忠義は、実は、武力の裏返しなのです。
武力があって、はじめて忠義の観念が活きる。
実はそこがいちばん大事なところです。

なぜかというと、世の中には、どうしようもない恥知らずで法をおそれない獣のような人々がいるという事実があるからです。
自分の私欲のために他人を犠牲にしてもなんとも思わない。
そのような不埒な連中というのが、必ずいるのです。
なかには、不埒が国家を名乗っているケースさえもある。

福沢諭吉が、その著書の「学問のススメ」の中で、
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と書いたのは有名な話です。

けれど福沢諭吉は、その文のあとに、次の一文を続けています。
「およそ世の中に無知文盲の民ほど憐(あわ)れむべくまた悪(にく)むべきものはあらず。
智恵なきの極(きわ)みは、恥を知らざるに至り、
己(おの)が無智をもって貧窮に陥り飢寒に迫るときは、
己が身を罪せずして、
みだりに傍(かたわら)の富める人を怨み、
はなはだしきは徒党を結びて乱暴に及ぶことあり。
恥を知らざるとや言わん、
法を恐れずとや言わん」です。

そしてさらに、
「かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭(さと)すべき方便なければ、ただ威をもって畏(おど)すのみ。西洋の諺(ことわざ)に、愚民の上に苛(から)き政府ありとはこのことなり」と書いています。

要するに、福沢諭吉は、天は人の上にも、下にも人をつくらない、、、つまり人はみな本来、対等につきあうべきだといいながら、世の中には、そういう付き合いをしてはならないろくでもない獣人がいるから、そういう連中とは付き合うな!、と言っているわけです。

みんなのために、みんなとともに我が命さえも捧げてがんばろうという人や国家がある一方、性根の悪い者や国があります。
そういう人や国は、平気で他人や他国の善意を利用し、志を蹂躙し、安心、安全、利益、信用、伝統や有形無形の財産を平気で奪い取ります。
ですから「忠義」は、常にそうした獣人からの危険に対し、「武」が要求されるのです。
つまり、武と忠義は、紙の裏表の関係にある。
「武」のない「忠義」は、かえって獣人を跋扈(ばっこ)させ、世を貶める原因となってしまうのです。

しばらくまえに、言葉の意味もわからずに「世界と友愛」などとわかったような妄言を吐いた政治家がいましたが、こういうのを、平和ボケといいます。

日本国民が縄文の昔から育んできた、やさしい心、助け合いの心を大切にするには、その国民を守ろうとする日本国への忠義心が、その根底に必要なのです。

そして忠義と、武力は、常に紙の裏表です。
そして武力があることが、民の安心な暮らしを守ることになるのです。

悪党がはびこらず、人々が安心して暮らせるために警察があります。
警察がなければ、民度の低い獣人たちがはびこり、人の世が壊れてしまいます。

同様に、国富を奪おうとする強欲国家があれば、これへの対抗には軍隊が必要です。

「武」と「忠」、この二つは常に共存することで、民の安寧をはかりうるものなのだということを、私達はもういちど確認しなければならないように、私は思います。

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