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大多喜町の地獄橋(じごくばし) [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

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国道297号線沿い、大多喜町と勝浦市の境界の三又川にかかる小さな橋「地獄橋」
この辺りは戦国時代、安房国から上総国に進出しようとする正木氏や里見氏、
それらを阻もうとする真里谷武田氏や土岐氏などと、幾度となく壮絶な戦があった地です
そして戦が落ち付いた後、
勝浦城や大多喜城(根古屋小田喜城)に、
正木さんと共に、ウチの先祖である房総眞田(佐奈田)本家・本家筋の先人達が重鎮として赴任したことからも、
その前段階でもあるこれらの地の戦に、幾人もの先祖衆が参加してたんだろうと・・・
そんな事を知るようになると、ここを用事で通過するたび、なんとも言いようのない切ない気持になります

ちなみに先祖の働き先である勝浦城や大多喜城は、戦国時代の末に本多忠勝さん達がやってきて、
惣無事令に伴う、里見氏の領地「上総」の没収、城の明け渡しにより出て行くことになり、、
自分ら先祖は長年住んだ故郷である南房総市和田町の三原郷に戻り、その北縁で主だった者は帰農し、
明治維新・文明開化の頃までそこでひっそりと暮らしてました('A`)

まぁこんな話があるから、いまだに南房総市和田町の地元では、
三原郷の北縁地域は「平家の落人村」って勘違いされて言われるんだろうなw
ウチは正確には平家(主に関西の伊勢平氏やその味方勢力)ではなく、坂東豪族の桓武平氏で、
源頼朝さん達と一緒に、平家に反抗した側なんですけどね

以下、大多喜町三又界隈に伝わる、
この地獄橋にまつわる民話を見つけたので、
転載しときます

時まさにお盆、
ご先祖さん達、そして相対した敵方達の冥福を祈り・・・(-人-) ナームー


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地獄橋(じごくばし) 


 国道二九七号線、大多喜町と勝浦市の境に『地獄橋(じごくばし)』と呼ばれる橋がかかっている。何も地獄なんて縁起の悪い名前をつけなくていいのに、と思っていた。 だが、この橋が地獄橋と呼ばれるようになった話があったのだ。 



 ♪世は戦国の房総に 
  武田(たけだ)や正木(まさき)の根古谷城(ねごやじょう) 
  万木(まんぎ)の土岐(とき)と 幾度か 
  干戈(かんか)交へし 刈谷原(かりやばら)・・・ 
        『大多喜城讃歌』詩・尾本信平 

 歌にも歌われているように、戦国時代、房総の武将は勢力拡大(せいりょくかくだい)のため、各地で小競り合いをくりかえしていた。 大多喜には武田、正木、隣の夷隅には土岐、安房には里見・・・あまたの武将がいくどとなく戦をくりかえしていた。 
 今となってはだれとだれが戦ったか確かなことはわからないが、今の大多喜町と勝浦市との境も戦(いくさ)があった。 
 霧が立ちこめた未明のことだった。 
「あの砦に攻め込め」 
大将の命令で数千の兵が砦(とりで)に襲いかかった。壮絶な戦いが始まった。馬も人もいっせいに走りはじめた。 
「敵は逃げるぞ、一気に追え」 
不意の襲撃(しゅうげき)に兵達はただ逃げるしかなかった。 
「射(い)よ、射よ」 
弓を徹底的(てっていてき)に射させた。倒れた兵の体からおびただしい血が流れた。 

「火をつけろ」 
砦はたちまち赤い炎につつまれた。 
「一人残らず殺してしまえ」 
逃げまどう兵に向かって、さらに弓を放った。 
 砦は焼き払われ、死んだ兵はもちろん死にきれず息のある者まで焼き殺された。血のにおいと死体の焼ける異様なにおいにつつまれた。 
 やがて空が真っ黒になり、雷鳴(らいめい)がとどろいた。稲妻(いなずま)がバリバリ走る。風が吹き、雨がふりだした。倒れた兵に容赦(ようしゃ)なく雨がたたきつけた。 その光景はまさにこの世の地獄であった。 

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 この戦の後、この橋をだれいうともなく『地獄橋(じごくばし)』と呼ぶようになり、戦の悲惨(ひさん)さ、残酷(ざんこく)さを今に伝えている。

おしまい


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