SSブログ

「発坂峠の戦い」いすみ市(旧大原町)の昔話 【転載】 [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

一つ前の日記同様、中世の終わりの戦国時代、
その時代に正木家と里見家に一族の多くが仕えていたことからも、
そのウチの先祖が絡んでいるであろう戦の話です

戦なんて、今じゃ全く考えられない野蛮さですけどね、
でも当時は日本中がそんな感じだったから、誰もが戦わなくちゃ生き残れなかった時代なんですよね

まぁウチはこの点、案外珍しく、平安時代から鎌倉時代への過渡期や、ここで挙げる戦国時代から江戸時代への過渡期の間も武士(豪族/土豪)してた家であったようで、
故に口の悪い人からは「人殺しの家!」とか言われますが・・・(;´∀`)
何も戦ってたのは武士ばかりじゃなく、その時代は里のみんなも揃って武器持って戦ってたんですよねー
そういう点では、これらの時代を生き残った人々は、早々「人殺し」と縁のない人はいないんじゃないでしょうかね

-----------------------------------
発坂峠(ほっさかとうげ)の戦い

 県道大多喜・大原線、佐室地区に『発坂峠』と書かれた史蹟案内板が建てられています。
日頃は、見逃してあまり意識することもありません。しかし案内板によって遠いむかし、房総の兵たちが激しい戦をくりひろげたことを 知ることができます。
この『発坂峠の戦い』は、『房総治乱記(ぼうそうちらんき)』や『房総(ぼうそう)軍記(ぐんき)』にも語られています。
             

 むかしむかし、今から約四百年ほど前のことです。この辺り一帯は、万木(まんぎ)の土岐(とき)氏と安房の里見(さとみ)氏が大きな勢力を誇っていました。
そのため土岐(とき)方と里見(さとみ)方は、しばしば小さな争いをくりかえしていました。
 天正十七年(一五八九)、里見(さとみ)氏の指揮下に有った長南(ちょうなん)城(現長南(ちょうなん)町)が土岐(とき)氏に攻められ大敗しました。
この知らせは、すぐに安房城主里見(さとみ)義頼(よしより)に伝わりました。知らせを聞いた義頼(よしより)は、激怒しました。
「ええー、土岐(とき)は親子(おやこ)二代にわたって我が里見(さとみ)家にそむいて・・・・・万木(まんぎ)城に一気に攻め入って、降参させねばならぬ・・・」
 万木(まんぎ)城攻略の命を受けた安西遠江守、山川豊前守は、総勢二百五十騎を率いて、安房国から上総(かずさ)の国に向かいました。
里見(さとみ)軍が攻めてきたことを聞いた、万木(まんぎ)城主土岐(とき)頼春は
「敵がせめて来るというのに、城で待っているとは不本意なり。ええー、途中で里見(さとみ)軍をむかえ、一戦まじえようぞ」
「里見(さとみ)の兵など朝飯前にやっつけてやるぞ」
六百騎を率いて、保坂峠に向かい、陣をひきました。
             

 一方、土岐(とき)軍が城を出たことを聞いた里見(さとみ)勢は
「城を出るとは願ってもないことだ・・・。土岐(とき)勢の後部を断ち切って、前後よりはさみうちにしようぞ」と、
三百騎をひそかに久保(くぼ)村(現御宿町久保(くぼ))に回しました。
 これを近くの百姓たちがみつけて、久保(くぼ)坂峠に陣を構える土岐(とき)軍に知らせました。
これを聞いた土岐(とき)頼春は
「みなの者よく聞け。これよりこの陣をひきはらい、発坂峠に向かう。そこにて里見(さとみ)勢をむかえうつ・・・・・」と、久保(くぼ)坂峠の陣をひきはらいました。
              

 里見(さとみ)軍は、そうとは知らず、夜明けとともに久保(くぼ)坂峠に向かいました。土岐軍の姿は見えません。
「さては土岐(とき)軍、里見(さとみ)軍がこわくなって逃げ出しおったか・・・・。追いうちして、一気にせめつぶしてしまえー」
と、万木(まんぎ)城を目指して、進撃しました。
 里見(さとみ)勢がちょうど、発坂峠にさしかかたときです。峠の頂に『桔梗(ききょう)の紋』を描いた土岐(とき)方の旗が、林立しているではありませんか。
里見(さとみ)勢は、動転して立ち止まりました。しかし、ややしばらくあって
「ものども進め。ひるまず、一気にかけのぼれー。」
安西遠江守の号令が、かかりました。そうすると
ウオー ウオー・・・
ウオー ウオー・・・
と、いうかけ声とともに、太刀を抜いて、峠道をかけ登ります。しかし、峠からふってくる弓矢に、あたりは血の海。
草のにおいのただよってっていた峠道は、またたくく間に血のにおいにかわってしまいました。
 やがて、里見(さとみ)勢は力つき、退散してゆきました。
この時の戦士者、万木(まんぎ)勢死者十六人、里見(さとみ)勢百八十人といわれています。

 里見(さとみ)軍の折れた弓や太刀をうめた所が、『弓折塚』と呼ばれています。
また『矢玉』『矢中』などの地名も、近くに残っています。
峠には、土岐(とき)の紋『桔梗』の旗を立てたといわれる、『旗立山』という地名も今に伝えられています。

おしまい



大きな地図で見る


【関連日記】
三浦党 房総眞田氏、郷土史などに出てくる先人達の名
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2014-09-30
中世から近世、小豪族のウチ「房総 佐奈田/眞田」先祖達の生き残りの歴史
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2012-07-19
三原眞田 / 三浦眞田の故郷 安房の三原郷
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2015-12-10-1
中世豪族 眞田氏の三原城 そして神田山の三原城山城
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2013-01-01
中世豪族 眞田氏のやぐら・磨崖{まがい}五輪塔 南房総市指定史跡
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2013-04-20-1
眞田、真田、佐奈田、、サナダという地名と名字の由来
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2009-09-20-1
佐奈田与一(眞田与一)の子孫について
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2011-07-13
房総の眞田一族にも六文銭を家紋に使う家系があります
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2011-07-13-1
【雑談所】やる夫が真田家に生まれたようです 雑談所その10 【2ちゃんねる より抜粋】
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2015-01-14-1

[中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]カテゴリ一覧
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300213675-1


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:地域

nice! 2

コメント 0

コメントの受付は締め切りました