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曽祖父と曾祖母の話 ウチのもっとも古い120年前の写真の背景 [フツーに日記]

あー、前の日記で書いたように、ちょいと必要があって、
元々ウチがあった三原郷(南房総市和田町)に、出る限りの戸籍謄本を取りにいったんですが、
それを眺めているうちに、ふと今まで謎だった曽祖父と曾祖母の馴初めというか軌跡がわかりました
家督を継いでいたのは、曾祖父じゃなくて曾祖母、曾祖父は入婿だったんですな

それと連動して、ウチにあるもっとも古い写真の背景も同時に見えました
sanada-family1896.jpg
この写真は、安房郡天津町清澄(現在の鴨川市清澄)で撮られたもののようです
曾祖母の「ひやく」さんに入婿に来た、曽祖父の「甚七」さんの実家前の、
清澄寺の千年杉のところでの記念写真でビンゴですね、
ちなみに甚七さんの家の真ん前は、清澄寺の山門ですし、この大きい木肌と背後の柵がマジに清澄寺の千年杉、
はじめこの背景が何だろうと思ってたんだけど、4cm四方の写真を高解像度でスキャン拡大して、
背後にあるのが大きな木の木肌だとわかりました、柵もあるしなー、、
第一、自分もこの木を何度も見たことありますしねw
・・で、写真の撮られた年代ですが、ひやくさんが結婚する前後、多分結婚前に、
甚七さんの実家を尋ねたものだろうから、1896年、明治29年頃の写真ということになる
つまり今から約120年ぐらい前の写真ということですな

この曾祖母ひやくさんは、結婚後、祖父兄妹を産み、明治36年に29歳の若さで亡くなりました
亡くなった場所は、今でいう鋸南町保田、
推測の域を出ないけど、、多分結核などで、病院で亡くなったんじゃないんだろうか
だから三原郷での死亡じゃなく保田で死亡届が出されている

この曾祖母が2人の子を産み、それが今の自分に繋がっている反面、
残された曾祖父は、曾祖母との死別後、三原郷に居難かったのか、それとも木工職人だったので、
これを切欠に満足な木材のある故郷の清澄(鴨川市)に子を連れて戻ったのか、、
そこで曾祖父は「眞田」の名字のまま暮らし、後に再婚を2度したのですが、、
その二人の間に子供は作っておりませんでした
曾祖父、曾祖母共に、それぞれの状況下で色々思うところがあったんじゃないかと・・

しかしウチの登記は、一度も清澄(鴨川市)には移動しておらず、昭和の頃まで三原郷にあったんです
その辺りは、曾祖父がそのままにしていたんですな(´・ω・`)

えー、そんなドラマにも出来そうなお話が、別件のために戸籍謄本を出しまくった副産物で見えてきましたw

これら曾祖父や曾祖母が残してくれた「血」が、大正時代の新聞記者の祖父(写真右から2番目)に繋がり、
gunji-toku.jpg

その血はさらに「昭和に遅れて舞い降りた鎌倉武士」みたいな三兄弟、
南総の暴れん坊(?)、サナダ三羽ガラスを産みw
149_2037452617_35large - コピー.jpg

そこから平成の下克上の世で、ヒーヒー言いながらも
なんとか生き続けているオレがいて、となる(´・ω・`)
DSC_0495 - コピー.JPG
 
あーそうだ、
ウチもかなり古い本家だけど、そんなウチから見て、さらに古い本家のオジサンの若いころの写真が出てきた
昭和21年、つまり第二次世界大戦後、戦後1年目の写真
名や屋号は伏せますが、苗字は同じ眞田、このお宅とは今も付き合いがあります
sanada-takaji1946.jpg

しっかしまー、ウチはホント色々と歴史深いよな(;´∀`)
知れば知るほどそう思うわ
写真がある120年ぐらい前まででもお腹いっぱい( ´ー`)フゥー...
そういやアルバム内の謎の人物として、出征する人の写真が何枚かあるんだけど、
あれはどこの眞田さんの子なのか、、
その辺りも今後知りたいわ(´・ω・`)

【参考】
ウチが昔から住んでた場所は、昔は三原郷と呼ばれる地域の山奥でして、以下のMAPでピンクに塗ったエリアです
miharagou.jpg

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