子供の頃の遊び場風景 大多喜町のマチナカ「個人的な資料としての写真」 [大多喜無敵探検隊-since197Xの紹介]
あー、子供の頃によく遊んだ、大多喜町の風景をザッと貼っていきます
個人的な資料という側面のモノですね
写真は夕方なので鮮明ではないですが、でもまー思い出の風景ということで、
こんなボヤボヤした感じもアリでしょう
さっそく解説、これは南総の実家、母の隠居の家の駐車スペースに、ウチの車を押し込み停めた様子
意外とデカい車でして、鼻先が少し出ます(;´∀`)
ちなみにウチの子供はこの車の室内の機械的なニオイがキライで「黒ブーブくさいからイヤ」と、乗るのを嫌がります
お陰で年中、移動は地下鉄か徒歩かチャリンコなのさー ┐(´д`)┌

ここからが大多喜町の写真、これは大多喜町の町営駐車場にある防火水槽
作られたのは自分が小学校3年生の頃だと思うので、かれこれ40年は経っていると思います

この水底には、かつての自分達「クソガキ」どもが、いらなくなった軍艦のプラモを持ち寄り、
海戦と称して石やらロケット花火やらを撃ち込み轟沈させて遊んでました
自分の作ったアオシマ製の長門もここで永眠していますねー
別名「軍艦の墓場」 ァ '`,、'`,、('∀`) '`,、'`,、

よく見ると、ブナとか泳いでるんですよねー、誰かがここに放流したんでしょうね(´・ω・`)

防火水槽の向かって左側、旧国道沿いの民家の裏庭の木々です

防火水槽の向かって右側のドブ川、これは夷隅川に繋がる小川で、
子供の頃は、この川底を(わざわざ)歩いて道路の下の水路を渡り夷隅川まで行きました、
今思うと何やってんだオレって感じ(;^ω^)

その小川(ドブ川)の上流、右手に三匹の猿の昔ばなしが伝わる青龍神社が見えます

青龍神社の昔ばなしはコレ (´・ω・`)つ http://www.boso-legend.com/story/0015/

青龍神社脇の茂み

町営駐車場に今も残る防空壕の後 その一
今は大分埋められちゃいましたが、その昔は中に入れて、ちょっとした冒険が出来ました
便所コオロギ(カマドウマ)や巨大なゲジゲジ(ゲジ)、ハガチ(ムカデ)らひときわ妖しい虫達が、
暗闇の中にウヨウヨ巣食ってました

町営駐車場に今も残る防空壕の後 その二
上記(その一)の穴と、奥で繋がっております

防空壕の上の丘、ここには自分たちの秘密基地がありました
もちろん「大人の絵本」常備です( ー`дー´)キリッ

当時の町営駐車場は、この写真の大型トラックがある手前からは田んぼになってました
そこの田んぼには、ドジョウやザリガニ、小魚に、タニシやタガメもおりました
そうそうゲンゴロウもいたなー、なぜかゲンゴロウは皆に人気でした
町営駐車場は今のようにアスファルトは張られてなく、地面むき出しで砂利が敷かれておりました

このアスファルトの向こうは一時期ご近所の人のゲートボール場になってたけど、その更に前はやはり田んぼでした

この小道は、大多喜町の桜台の辺りの旧国道沿いから、酒造通りに抜ける小道、子供の頃はよくここを歩きました

こちらがその酒造通り側の出口(入り口?)
その昔、この角に巨大なオオスズメバチの巣が出来て、皆で殲滅すべくクソガキ達で破壊活動を遂行しました
自分達はパチンコ(スリングショット)で、その巨大な巣に石をブチ込みまくったんですが、そんなモンじゃ効くワケなく、
怒ったスズメバチが不気味な羽音を響かせて大挙して巣から飛び出してきて、我々は追い掛け回されました
あ、ヒロイサオが頭のテッペン刺されて「あー刺されたー!オレしぬー!!」と叫んでいたのを思い出した
・・彼は今も元気に生きております

ナンエン食堂(南園食堂)のあったところ、現在はオーナーも代わり「お食事処 番所」になってます

映画館の跡地
一年遅れの「夏の東映まんが祭り」や、やはり一年遅れの「ゴジラ」や「ガメラ」、
そして一年遅れの「寅さん」や一年遅れの「トラック野郎」が懐かしい '`,、('∀`) '`,、
でもまー基本は日活のエロ映画ばかりやっており、多感な男の子達の「憧れ」の場所でもありました( ´ー`)

喫茶「とりで(砦)」
県紙「千葉日報」の夷隅郡市担当の新聞記者だった父が、よくここでコーヒー飲みながら原稿書いてました
ここと、近所の「緑の館」が父のお気に入りスポットだったな(´∀`)
夏休みには、ちゃっかり弟と父がいること前提でお邪魔し、ジュースなどをタカってましたw
その向こうには(通称)夷隅支庁があり、ここにも父はよく伺ってました

大多喜警察署(現 勝浦警察 大多喜幹部交番)
ここにもよく父は行ってたなぁー、自分も一緒になってくっついてって、署内をウロチョロしまくってました

大多喜町大多喜(根古屋)の大多喜八幡神社、ここの子供神輿はよく担ぎました(担がされた?)
現在社殿を建替え中

大多喜駅の裏手側から大多喜駅を見たところ
ここはいすみ鉄道になってから、大多喜高校の生徒向けに道が作られました

思い出深い木原線の猿稲踏切(現 いすみ鉄道)

踏切から国吉側(上り)方面

踏切から大多喜駅方面(下り)

猿稲の踏切の脇は、このような斜面になっておりまして、当時は背の高い雑草に覆われており、、
何故か意味もなく、クソガキ連中でその茂みに隠れ、木原線を眺めるのが好きでした

猿稲踏切、猿稲地区の方を望む
この道の先は江戸時代の大多喜城、その昔の大多喜城の城山があったエリアに繋がります

駅のそばの床屋さん、農協前(今は大多喜整形病院)にあった小道
線路を横断して向こう側に渡れる、いわゆる「勝手踏切」ですが、、
今はさすがに危ないので、当時のように気軽に渡る人はいないと思います

小道を上がった「勝手踏切」のところの線路、向こう側の柵も一部、人が通れるように空いてますね
・・通ってる人いるのかな?(´・ω・`)

大多喜駅
その昔の大多喜駅前は、塔の手前の車道2車線分までが大多喜駅のロータリーになってました
この塔の前に車が縦に停められましたしね

大多喜駅のホーム
基本的には40年前と大きく変わっておりません

【関連URL】
房総レジェンド 日本の房総半島の伝説・伝承・昔ばなし
http://www.boso-legend.com/

千葉県夷隅郡大多喜町
個人的な資料という側面のモノですね
写真は夕方なので鮮明ではないですが、でもまー思い出の風景ということで、
こんなボヤボヤした感じもアリでしょう
さっそく解説、これは南総の実家、母の隠居の家の駐車スペースに、ウチの車を押し込み停めた様子
意外とデカい車でして、鼻先が少し出ます(;´∀`)
ちなみにウチの子供はこの車の室内の機械的なニオイがキライで「黒ブーブくさいからイヤ」と、乗るのを嫌がります
お陰で年中、移動は地下鉄か徒歩かチャリンコなのさー ┐(´д`)┌
ここからが大多喜町の写真、これは大多喜町の町営駐車場にある防火水槽
作られたのは自分が小学校3年生の頃だと思うので、かれこれ40年は経っていると思います
この水底には、かつての自分達「クソガキ」どもが、いらなくなった軍艦のプラモを持ち寄り、
海戦と称して石やらロケット花火やらを撃ち込み轟沈させて遊んでました
自分の作ったアオシマ製の長門もここで永眠していますねー
別名「軍艦の墓場」 ァ '`,、'`,、('∀`) '`,、'`,、
よく見ると、ブナとか泳いでるんですよねー、誰かがここに放流したんでしょうね(´・ω・`)
防火水槽の向かって左側、旧国道沿いの民家の裏庭の木々です
防火水槽の向かって右側のドブ川、これは夷隅川に繋がる小川で、
子供の頃は、この川底を(わざわざ)歩いて道路の下の水路を渡り夷隅川まで行きました、
今思うと何やってんだオレって感じ(;^ω^)
その小川(ドブ川)の上流、右手に三匹の猿の昔ばなしが伝わる青龍神社が見えます
青龍神社の昔ばなしはコレ (´・ω・`)つ http://www.boso-legend.com/story/0015/
青龍神社脇の茂み
町営駐車場に今も残る防空壕の後 その一
今は大分埋められちゃいましたが、その昔は中に入れて、ちょっとした冒険が出来ました
便所コオロギ(カマドウマ)や巨大なゲジゲジ(ゲジ)、ハガチ(ムカデ)らひときわ妖しい虫達が、
暗闇の中にウヨウヨ巣食ってました
町営駐車場に今も残る防空壕の後 その二
上記(その一)の穴と、奥で繋がっております
防空壕の上の丘、ここには自分たちの秘密基地がありました
もちろん「大人の絵本」常備です( ー`дー´)キリッ
当時の町営駐車場は、この写真の大型トラックがある手前からは田んぼになってました
そこの田んぼには、ドジョウやザリガニ、小魚に、タニシやタガメもおりました
そうそうゲンゴロウもいたなー、なぜかゲンゴロウは皆に人気でした
町営駐車場は今のようにアスファルトは張られてなく、地面むき出しで砂利が敷かれておりました
このアスファルトの向こうは一時期ご近所の人のゲートボール場になってたけど、その更に前はやはり田んぼでした
この小道は、大多喜町の桜台の辺りの旧国道沿いから、酒造通りに抜ける小道、子供の頃はよくここを歩きました
こちらがその酒造通り側の出口(入り口?)
その昔、この角に巨大なオオスズメバチの巣が出来て、皆で殲滅すべくクソガキ達で破壊活動を遂行しました
自分達はパチンコ(スリングショット)で、その巨大な巣に石をブチ込みまくったんですが、そんなモンじゃ効くワケなく、
怒ったスズメバチが不気味な羽音を響かせて大挙して巣から飛び出してきて、我々は追い掛け回されました
あ、ヒロイサオが頭のテッペン刺されて「あー刺されたー!オレしぬー!!」と叫んでいたのを思い出した
・・彼は今も元気に生きております
ナンエン食堂(南園食堂)のあったところ、現在はオーナーも代わり「お食事処 番所」になってます
映画館の跡地
一年遅れの「夏の東映まんが祭り」や、やはり一年遅れの「ゴジラ」や「ガメラ」、
そして一年遅れの「寅さん」や一年遅れの「トラック野郎」が懐かしい '`,、('∀`) '`,、
でもまー基本は日活のエロ映画ばかりやっており、多感な男の子達の「憧れ」の場所でもありました( ´ー`)
喫茶「とりで(砦)」
県紙「千葉日報」の夷隅郡市担当の新聞記者だった父が、よくここでコーヒー飲みながら原稿書いてました
ここと、近所の「緑の館」が父のお気に入りスポットだったな(´∀`)
夏休みには、ちゃっかり弟と父がいること前提でお邪魔し、ジュースなどをタカってましたw
その向こうには(通称)夷隅支庁があり、ここにも父はよく伺ってました
大多喜警察署(現 勝浦警察 大多喜幹部交番)
ここにもよく父は行ってたなぁー、自分も一緒になってくっついてって、署内をウロチョロしまくってました
大多喜町大多喜(根古屋)の大多喜八幡神社、ここの子供神輿はよく担ぎました(担がされた?)
現在社殿を建替え中
大多喜駅の裏手側から大多喜駅を見たところ
ここはいすみ鉄道になってから、大多喜高校の生徒向けに道が作られました
思い出深い木原線の猿稲踏切(現 いすみ鉄道)
踏切から国吉側(上り)方面
踏切から大多喜駅方面(下り)
猿稲の踏切の脇は、このような斜面になっておりまして、当時は背の高い雑草に覆われており、、
何故か意味もなく、クソガキ連中でその茂みに隠れ、木原線を眺めるのが好きでした
猿稲踏切、猿稲地区の方を望む
この道の先は江戸時代の大多喜城、その昔の大多喜城の城山があったエリアに繋がります
駅のそばの床屋さん、農協前(今は大多喜整形病院)にあった小道
線路を横断して向こう側に渡れる、いわゆる「勝手踏切」ですが、、
今はさすがに危ないので、当時のように気軽に渡る人はいないと思います
小道を上がった「勝手踏切」のところの線路、向こう側の柵も一部、人が通れるように空いてますね
・・通ってる人いるのかな?(´・ω・`)
大多喜駅
その昔の大多喜駅前は、塔の手前の車道2車線分までが大多喜駅のロータリーになってました
この塔の前に車が縦に停められましたしね
大多喜駅のホーム
基本的には40年前と大きく変わっておりません
【関連URL】
房総レジェンド 日本の房総半島の伝説・伝承・昔ばなし
http://www.boso-legend.com/

千葉県夷隅郡大多喜町
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