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国鉄 木原線のガーダー鉄橋を越えろ!-大多喜無敵探検隊の作戦報告 [大多喜無敵探検隊-since197Xの紹介]

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最近では昔ほどブログを更新しなくなって久しいですが、その分noteで趣味の(自称)児童文学を仕事の合間に執筆し、ひとり楽しんでおります。
このお話は、前々からもこちらで何度かご紹介させていただいた『大多喜無敵探検隊 佐奈田隊長回顧録-since197X』というもので、私と同年代の人には懐かしく、そして令和の子供たちには反面教師としてご覧になっていただけたら嬉しいなぁ~といった、一種のイラスト・エッセイです。
舞台となる昭和中期~後期の房総半島は、ご存知の通り首都である東京の隣の千葉県ですが、令和の今でも半島の先に行くほどむっちゃくちゃ田舎でして、それが今から40~50年前の昭和の頃となったら本当にトンでもない僻地でありました。しかしある意味ワイルドでもあったのですが。。このお話は、そこで育った私の、昭和のあの頃の回顧録でもあります。
以下は今回更新した物語で作成したイラスト。大体は文章を書いた後に、その文面を読み返しながら分かりにくいところなどをイラスト化、または古い写真を探してきてUPしてます。なにぶん古い時代、昭和レトロ真っ只中のお話ですので、今の時代では通じない事柄も多く、イラストや欄外の解説文での補足が必要になる代物でして・・、創作自体が案外面倒くさいことこの上ないのですが、あの当時を鮮明に思い返すことも出来、ある意味楽しい作業でもあります。ちょうど10年ちょいほど前まで没頭したガンダムの精緻なジオラマ作りに通じるところがありますね。

今回のお話のタイトルは『act:12-木原線のガーダー鉄橋を越えろ』、もうそのままで内容が分かっちゃうようなものですが、今回のあらすじをお話しますと、、いつも喧嘩になるクラスの番長がちょっとした武勇伝を語ったことに猛烈な対抗心を燃やす小学生の頃の私って感じです。
去年交通事故で亡くなった従弟のコージ、そして勝浦市長にまでなられた今は亡き在りし日の恩師、山口和彦先生にも勝手ながらご出演いただきました。彼の教師デビューは大多喜小学校、その最初の生徒が実は私たちです。
あぁそうだ、note見てくれたらイイネ押してね!w

以下、リンクです。
大多喜無敵探検隊 佐奈田隊長回顧録-since197X
act:12-木原線のガーダー鉄橋を越えろ

大多喜無敵探検隊 佐奈田隊長回顧録-since197X TOPページ


そして以下は、今回のお話で用意したイラストや写真です。

ootaki-city.jpg
このプレートガーダー鉄橋が、今回の冒険の舞台です。

ガーダー鉄橋と木原線m.jpg
国鉄 木原線のガーダー鉄橋『第4夷隅川橋梁』通過列車はキハ35とキハ17 1976年頃

ナガサ(カラー)マスターNEXT-jpegm.jpg
クラスの番長 ナガサ(長狭)、もちろん実名は変えてます、まー今ひとつお互い気が合いませんでした。

大多喜小学校マスターデータ加工済マスターJPEGm.jpg
私が通っていた木造校舎だったころの大多喜町立大多喜小学校 撮影は1977年頃

カップスターカラーマスターmini-jpeg.jpg
カップヌードルに対抗し誕生したカップスター、1975年の発売当初はこんなパッケージでした。

ションベンタワー待ち合わせマスターjpegm.jpg
その昔の大多喜町役場の様子、写真の解像度がよくないので色々誤魔化しています。この防災行政無線塔は、当時の近所の私たちの間では『ションベンタワー』と呼ばれ、忌み嫌われておりました。

回旋塔と漢2人の図その2Jpegm.jpg
昭和の校庭や公園には、今の時代では安全性から考えられないような遊具がたくさん並んでおり、この回旋塔もその一つです。みんなはメリーゴーランドとも言ってました。

ガーダー鉄橋の中カラーマスターNEXT-jpegm.jpg
冒頭の国鉄木原線のガーダー鉄橋の内部はこんな感じです。ディテールが不安な箇所は、お友達のJR社員さんにお聞きしました。サンキュー!S氏!

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写真左から伯父、父と4歳時の弟クニオ、そして従弟のコージの父、ヒロシ叔父さん 1973年 行川アイランドで撮った写真です。この写真に写っている人は、弟も含め今は皆あの世にいっちゃってます。

大多喜駅カラーマスターJPEG2m.jpg
1977年、昭和52年当時の国鉄木原線『大多喜駅』。ほぼ当時の記憶だけで描いたものですが、そののち『いすみ鉄道応援団』TOPカメラマンK氏のお墨付きをいただきました。

ガーダー鉄橋NEXT(カラー)マスターJpeg第二弾m.jpg
大多喜駅から小谷松駅に向かう最初の踏切『南廓踏切(なんかくふみきり)』から線路を歩きました。この踏切は現在と位置が違い、その当時は10mほど大多喜駅寄りでした。イラストの右隅には肥溜(こえだめ)、当時の大多喜町は田畑の周りに案外普通に存在しており、夢中で走り回る田舎の子供たちにとっては恐怖のトラップ以外のナニモノでもありませんでした。

ガーダー鉄橋通過中カラーマスターjpeg5m.jpg
プレートガーダー鉄橋は、前出のイラストにもある通り下は筒抜け、ようは床がなくフレームのみで、下を覗くと遠い地面が見えて恐怖そのものですが、大抵の場合はメンテナンス要員用に、線路の間に20~30cm幅の板が敷かれております。線路の隙間から橋の下を覗くと怖くて動けなくなりますが、この板の先を見て、真っすぐに板の上を歩くようにして踏破できました。

踏破マスターカラーjpegm.jpg
何だかんだ、当時の私たちは本当に漢気(おとこぎ)で危険極まりない木原線の鉄橋を渡り切ったのです!今思うと恐ろしい限り、、どうか令和のお子さんは絶対しないようにしてください。ちなみに左の人物『ユーイチ』のように妙な格好をしてる子供って今では早々見ませんが、その当時は案外いました。他にもカッコいいからと木刀を常時持ち歩く子供や、放課後はいつもお祭りで買った様々なお面をつけてる子供とか・・、我々の子供の頃に比べたら、令和の子供たちは何だかんだ聞き分けがよく行儀良く、基本的に賢いと思います。

喧嘩カラーマスターjpeg2m.jpg
ナガサと取りまきのトキ(土岐)、そしてヤリタ(鎗田)、ナガサにケリを入れる私。。今振り返ると私はクラスの秩序をいつも乱すストレンジャーだったのでしょうね、しょっちゅう喧嘩してました、それも大概は番長格と喧嘩になって、その番長を打ち負かしそうになると、ここに上げた取りまき(名は変えてます)をはじめ、最悪はクラスの男子全てが敵になるといった塩梅でした。これは今でいう『イジメ』か?とも思うけど、そもそも喧嘩を吹っ掛けてるのは『協調性なにそれおいしいの?』な私ですしね、明らかに私はクラスの中で本気で輪を乱す悪者だったんです、みんなゴメンなぁ~。大人になって分かったことは、どうやらオマエたちの方が多分正しかったようだ。今ならナガサやトキ、ヤリタたちと仲良く出来そうだ(・・本当かな?)。

ガーダー鉄橋のMAP2-jpeg.jpg
昭和の時代の大多喜町の絵地図、所謂イラストマップです。昭和50年代ぐらいまでは、大多喜町の町なかには色んなお店があり、また元気に遊びまわる子供たちも、そこかしこでよく見られました。大多喜町は、この当時から『過疎の町』と云われていましたが、それでも今よりずっと賑やかでした。

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