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中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田) ブログトップ
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三原眞田 / 三浦眞田の故郷 安房の三原郷(御原郷) [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

自分の家の先祖話をする際に、度々出てくる「三原郷」の場所についてですが・・
三原郷(みはらごう)とは、安房国の朝夷郡にあった「郷・里」の名で、平安時代より以前は「御原郷(みはらごう)」とも記されます
三原郷は、現在の地図に当てはめると、主に南房総市和田町の三原川を軸としたエリアが主体で、平安時代後期には、(旧)長狭郡との境界までの間の和田村や、その隣の鴨川市江見界隈、壬生(にぶ)郷まで、その影響力が及んでいた模様です
ようは、当時のこの地で力を持った豪族の勢力によって、領地にも多少の盛衰があったのではないかと・・
三原郷の地名は「北三原」「南三原」「上三原」「中三原」「下三原」などとして現在でも残っています
MAPの濃いピンクの部分が三原郷、薄いピンクの範囲は、平安時代末の時点の、三原郷の豪族「三原眞田」の勢力範囲となりますasaigun-miharagou2016-0531.jpg
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そしてこの三原郷と、我が一族の関わりについてですが、、
自分達一族の遠い遠いご先祖は、平安時代末期の安元・治承(1175~1180年)より前に、相模国の大住郡岡崎郷の佐奈田村、現在の平塚市真田から、三浦半島経由で浦賀水道を渡り、この安房国の朝夷郡三原郷に移り住み土着、以降は大永・享禄(1521~1531年)の頃まで在地豪族・開拓領主として、この郷を納めてきたようです
その間、多少の盛衰はあったでしょうが、戦国時代に正木氏、里見氏に与するまでの凡そ350年以上の間、この地域に君臨(?)してきました(以降は江戸時代の初めまで、戦国武将の正木氏に重鎮として仕えたようです)

まぁー豪族や領主というと、場合によっては武装貴族、軍事貴族とも呼ばれることもあり、
さぞや権力を傘に、常に武器持ち歩いて踏んぞり返り、
綺麗な里の娘すべてにイヤラシーことをしようと日夜企み、
真っ昼間っから大酒かっくらって、気に入らないとすぐ人を刀で斬りつけるような、
そんな悪党共なんだろうケシカラン!(# ゚Д゚)

・・と思われがちですが、実際そんなことはなく(ないわー)
基本は郷(さと)の発展のために、自らが中心となり農業や産業を興し、他地域との貿易の便宜なども図り、そして侵略者達から郷を護る役目を持つ人々だったのではないかと・・
まー、今の時代にわかりやすく当てはめるとすると、治安維持能力、軍事力をあわせ持った村長や町長、もしくは地場産業の社長みたいな人、といったイメージになるのでしょうか
豪族は、一種の貴族とも言われますが、同じ貴族としても、力による搾取・奴隷型の支配がベースのヨーロッパ型の貴族らとはちょっと趣が違うように思います
この辺りは古代豪族や中世豪族の生活様式の本、そして地域の伝承などを読むと容易に見当が付くのですが(郷土史の読書が趣味の一つ!)、当時のご先祖達はこの三原郷で、米や野菜の農業はもちろん、和田浦の湊の停泊料や漁業、海産加工物、磑森(するすもり/地域名)辺りを中心とした軍馬などの放牧場運営、そして麻などの産業を、郷の皆さんの中心になって推進していた一族だったんじゃないかな、と・・(麻は房総の名の由来になるほどに、この地でもよく育ったそうです)
そしてその当時、その時々のパワーバランスに戦々恐々、振り回されそうになりながらも、なんとか350年やってきて、その後は戦国武将の重鎮、家臣団として帰農する江戸時代のはじめまで、刀をぶら下げ頑張ったと
( ´ー`)フゥー...
帰農した後はどうかって?
近世、近代となるとさすがに時代が近すぎるんで、ダイレクトに自分の家や親戚の言いたくない話に触れることになりかねず、軽々しく言うとウチにクレーム来ますよマジに(´Д`)
第一そんなロマンのカケラもない昨今の世知がない話など、誰も興味ないでしょうしね ε- (´ー`*)フッ

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※ウチの苗字の「眞田」は、古くは佐奈田・佐那田・佐名田・実田などと表記したようです

【関連日記】
三浦党 房総眞田氏、郷土史などに出てくる先人達の名
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佐奈田与一(眞田与一)の子孫について
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房総の眞田一族にも六文銭を家紋に使う家系があります
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【雑談所】やる夫が真田家に生まれたようです 雑談所その10 【2ちゃんねる より抜粋】
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大多喜町史に書かれた先祖達「小田喜衆」の苦悩、そして帰農という選択をした [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

あー、「大多喜町史」という大多喜町の郷土史の分厚い本がウチにあるのですが、

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この272ページに、落胆したウチのご先祖らの事が書いてありました(;´∀`)

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里見義康の上総没収、これに伴う、大多喜城や勝浦城などからの撤退、本多忠勝氏への明け渡しについて
当事大多喜城(小田喜城 / 小田木城)にいた正木側の家臣団、
特に「小田喜衆」と呼ばれる房州出の家臣団達は、かなり落胆したようで、、
まー今でいえばリストラですからね・・
現代のように雇用保険なんてない時代です

戦国時代、この大多喜城や勝浦城には、ウチの先祖の一族、
歴史書や郷土史などで「房総 眞田」「三原 眞田」「三浦 眞田」と呼ばれる一族の本家や本家筋が、
重鎮、家臣団として何人も仕えておりました
安房国の三原郷から出て、新天地の東上総にて、里見氏・正木氏に仕えていた訳なのですな
でもまぁーこのページに書かれているように、
豊臣秀吉さんの指令のもと、徳川軍の本多忠勝氏らに城を明け渡したわけでして、
結果、働き口がなくなっちゃったんですな
一応、その後の安房国「館山藩」には戻ってはきたものの、色々と大変だったようです

まぁその辺りはあまり詳しくは書きませんが、、一族という大きなくくりで話しますと、
里見義康の上総没収に伴う上総徹底で、安房に帰った「房総 眞田」の本家・本家筋の先祖達は、
故郷の三原郷の山間深く、真浦から分村した「布野」という地に居を構え、帰農しました
帰農、つまり武士をやめたということです
この時点で、平安時代末期の、安元・治承以前から続いてきた「土豪・武士」としての「房総 眞田」は、
一族として、ひとつの大きな節目を迎えたのです


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文中に出てくる三原郷と呼ばれる地域は、以下のMAPでピンクに塗ったエリアになります
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源頼朝公の房総上陸地と、昔からウチが住んでた地、そして戸籍謄本 [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

あー、一週間ほど前に、父親の株券の引き継ぎのため、
房総半島南東部の、外房の拠点の町「大多喜町」に家族総出で出かけた(※末尾リンク参照)のですが、
今度は、ちょっとした別の用事で、取れる限りの全ての戸籍謄本を集めるため、
ウチの家が昭和の初めまで元々あった町「南房総市和田町(わだちょう)」に、やはり家族総出で出かけました
戸籍謄本は、もちろん役所でしか手に入りません
ですので平日、また一日仕事を休んで、高速で一気に「鋸南保田IC」まで南下してきた次第です

鋸南保田ICで高速道路を降りた後は、せっかくなんで、すぐそばにある「源頼朝」さんの安房上陸の地に寄り休憩、
ここでウチのチビっ子の「海」初体験と、
ウチの家の云われにも関係がある平安時代末期に思いを馳せて、と( ´ー`)フゥー...
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ちなみに、実際の頼朝さんの上陸した海岸は、既に海に没しておりまして、、
この写真の防波堤、ちょうど釣りのオッチャンがいる辺りに頼朝さん一行は上陸したようです

平安時代末期、平清盛公率いる、所謂「平家」にクーデターを起こした源頼朝公、
しかし神奈川県小田原市の石橋山の決戦で敗退、
その後何日か山をさまよい歩いたあと、味方の多い房総「安房国」に小舟で渡ってきました
その上陸地がここなのです!
よく思うのですが、この時の彼の気持ちとは、一体どんなものだったんでしょうねー
共に立ち上がった味方達の相次ぐ戦死、敗残の兵となり山野を逃げ惑う恐ろしさ、、
途中満足に食事もとれなかったでしょうし、早々眠ることも出来なかったでしょう
そんな極限状態で、藁にも縋る思いで、この安房の地に渡ってきたんじゃないかな
でもその半面、「安房に渡り、勢力を戻し一気に逆転」するという確信めいたものもあったのでしょうね
その後の彼の功績は歴史の通り、安房国に進出していた大豪族「三浦党」の一族を中心に、
上総国の大豪族「上総広常」氏、そして下総国の「千葉常胤」氏達を味方につけ、
武蔵国を経由し、無事鎌倉入りをしています、以降、武士の時代が本格的に到来しました
そんな歴史のターニングポイントが、実は房総半島南部にあるのです
いいなぁー房総半島って(^ω^)

あー、話はかなり脱線しましたが、、
戸籍謄本を取るために向かう南房総市の分庁舎「和田地域センター」への道程上には、実は親戚の家がありまして、、
途中、久し振りにオバサンに会ってきました(話がまた脱線!?)
オバサンの家は、下の写真の道の先なのですが、ウチの車は幅がムダにデカいため、
オバサンの家の前に路駐すると、他の車の往来に支障をきたしそうなので、
かなり手前、日に2回しかバスが来ないバス停脇に車を放置し、ここからちょっと歩きましたw
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久し振りに伺ったら、オバサンたら、いつのまにかスズメバチを飼っててビックリ!(飼ってないわ!)
ブンブンとかなり怖えぇー(; ・`ω・´)

ちなみにですが、このオバサンの家の近所に、ウチは元々住んでました
下の写真でパワーショベルが置かれている一帯、ウチの車の横の場所ですね
現在は遠縁の親戚の所有地となっていると思います
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何か工事でも始めるんでしょうかね?
こんな山奥に家でも建てるのかな?

で、戸籍謄本を無事取ってきて、ついでに前々から色々疑問だった曾祖父・曾祖母の謎も解け、
まー一件落着とw(オチがねぇー!)
戸籍謄本が必要な理由は何かって?
はぁー、ソンなん幾らオッがカーカーでもよー、blogになんざ書くわけねーっぺさよ、あーんがよー(・´з`・)


【関連日記】
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【参考】
ウチが昔から住んでた場所は、昔は三原郷と呼ばれる地域で、以下のMAPでピンクに塗った地域の山奥です
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ウチの家紋は2つあるよ [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

あー、もうすぐお盆ですね
以下、お盆らしいネタでも一つ。。

お盆といえば、お墓、迎え提灯・・、それらには一般的には「家紋」が入ってますよね
その家紋、ウチの場合、実は2つあります
一つは家紋は「丸に笹竜胆」
源頼朝さんをはじめとする源氏、鎌倉幕府の紋章ですね
この拝領紋をいただく際のエピソードは、何故か2つあります
その一つは、戦国時代末に、時のお殿様から姫を救った功績で頂いた「褒美」としていただいたというもの、
家伝によると、この拝領紋は、一説には外房の勝浦城が徳川軍に攻めこまれた際、
もしくは里見氏のお家騒動の動乱の際に(どちらかちょっと曖昧)、
お城の姫様である「お万の方(養珠院)※」の脱出作戦を無事遂行したとかなんとかで、
彼女の父上の勝浦城主 正木頼忠さんに頂いたものだそうです
※この姫様、後の水戸光圀公(水戸黄門)のお祖母さんになる人です
そしてもう一つの由来は、平安時代末期に源頼朝公が房総に落ちのび、
そこから起死回生を果たすまでに、当時の先祖が色々と貢献したということで、
その褒美として頼朝公から直にいただいたというものです
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この拝領紋を、現在は「家紋」として常に使っていますが、
その他にも、古くからの家紋、所謂「裏紋」と云われるモノがありまして、
こちらは平安時代から続くもののようです
その古い家紋は「丸に三つ引き両」
自分の祖先は、相模国の桓武平氏 三浦党の小豪族(土豪)が先祖ということで、
平安時代末に相模国から南房総の三原郷に移り住み、
以来この地で、三浦党の一派として開拓領主を生業(?)とし、
郷(さと)の発展に努めていたようです
故に一般的な三浦党と同じ紋章が伝わっております
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・・で、この「裏紋」など家紋に纏わる話などは、郷土の歴史的にも、
もちろん「一族」としても、中々面白そうな内容なのに、
親戚の皆さんは、この裏紋の存在も含め、先祖達の昔ばなし全般に全く興味がないみたいです
まー今の時代、そもそもこういう話は実生活上、優先度が極端に低いですしね、
それに知ったからって、お金が儲かるわけでもないし、世間様から尊敬されるわけでもない、
どっちかというと
先祖の話なんてキモいしメンドくさいしチョー(゚Д゚)ウゼェェェ..
オレはオレだし先祖も本家もカンケーねーし( ・`ω・´)
先祖供養なんて金と時間の無駄、
寺が儲かるだけ(ヾノ・∀・`)ムダムダ
とか言われかねません
みんな木の股から生まれてきたわけでもないだろうになー
・・なんというか、薄っぺらい時代になりましたね( ´,_ゝ`)プッ

まーグチ(?)はさておき、話は戻り、、
そもそも褒美として頂いた拝領紋が、なんで源氏のシンボル「丸に笹竜胆」なのか?
この拝領紋が正木さんや里見さんにいただいたとするなら、
平安時代の末に、ウチが源頼朝さんの旗揚げに協力したという事実があったからじゃないのかな、とか・・
だから約400年後の雇用主である正木頼忠さんは、ウチの家系を知った上で、
数々の家紋の中から、褒美として「丸に笹竜胆」をウチに与えてくれたんじゃないかな?
そもそもウチは桓武平氏ですしね、源氏じゃないんですよねウチはw
一般的に考えたら、皮肉にも見えて、あんまり嬉しくないですってw
しかしまぁ、そんな様々な家伝を元に推測するに、
その拝領紋を頂いた際の、当時の先祖達の気持ちとは、
実は泣くほどに嬉しかったんじゃないかな、と思えてきてます
一族郎党の大転機となった平安時代末期の歴史を踏まえると、
そのウチにとっては余りにも恐れ多すぎる源頼朝さん、
そして「皆で世を変えた」という自負があるであろう、鎌倉幕府の紋を掲げる許可を、
時のお上から頂いたんですもんね(´∀`)
感無量!
・・もう、それ以外適切な感情表現はないでしょう
今の自分だったら喜びのあまり、
炭火焼鳥  千人力」を貸しきって、
そして次の日は「伝説のモツ焼き 亀田もつやき店」を貸しきって、
またその次の日は「沖縄系創作料理 ピロ吉ダイニング」を貸しきって・・(ry
もちろん名古屋や横浜など遠方の友人知人達は、
新幹線代、ホテル代をこっちで持って、家族揃って呼び寄せる!( ー`дー´)キリィッ
そんな感じで、一週間ぐらいぶっ続けで、きっと毎夜パーティーしてると思いますw
(しかし貸し切りたいお店がオッサン天国ばかりというオチ)

そしてもしもう一つの由来のように源頼朝公から直にいただいたとするのなら、
それはそれで凄いことですよね!
実は可能性としては、この平安時代末期に頼朝公からいただいたという由来の方が、
色々と無理なく自然に感じます。

下の写真はオマケ、ボロボロになった迎え提灯を、一昨年に新調したもの、
新調するにあたって、所謂「裏紋」を、裏紋らしく裏にコソッといれてみました
んーージャパネスク ビューティホー(´∀`*)

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【2022年11月17日追記】
今までは戦国時代末期に、水戸黄門のお婆さんになる『お万の方』を救出した功績などで正木さんからいただいた拝領紋とばかり思っていましたが、とある遠縁に確認したところどうもそうではなく、平安時代の終わりに、房総で源氏の軍勢が長狭氏を殲滅した際の武功で源頼朝公から源氏の紋章『笹竜胆』を拝領紋でいただいたものだそうです。
・・マジかよ(;´∀`)


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お彼岸の墓参り わが家の場合 [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

皆さん、このお彼岸は、お墓参りに行きましたか?

たまには亡き先人達を思い、お線香を上げにいくのは、
自分を見つめなおす意味でも、大変宜しいことじゃないかと思います

ウチの場合、主なお墓参り先は、以下のMAPの赤丸のところになりますが(実はもっとあるけど 汗)、
このお彼岸では、館山市、南房総市、御宿町、大多喜町のお墓に寄ってきました
ohakamairi-map.jpg

そのうち、南房総市で寄ったお墓とは、、
南房総市(和田町)の現役の親戚の墓はまた今度にして、
実は市指定文化財になってる「祠(ほこら)」に、久しぶりにお参りに行ったというw
その祠、山の斜面に掘られた洞穴の中には「摩崖の五輪塔」が四基ありまして、
つまりこれは、現在でいう「墓」より、一段レイヤーが上の「一族の供養塔」ってヤツなんでしょうかね、
それも鎌倉時代ぐらいの・・
冷静に考えたら、途方もない悠久の彼方の話ですが、
なんでもウチは、ココにそれなりに縁が深いそうでして・・

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・・まーでも実際のところ、ここのお寺自体が、既に創建当時の禅宗ではなく、日蓮宗に再建されて久しく、
そして宗派が変わったことで、この摩崖の五輪塔も、梵字部分が削られており、
結果的には、この供養塔に祀られていた遠い先人達の御霊抜きも、執り行われているようでして、、
つまり現在ではウチをはじめ、それぞれの子孫達のお墓に、
その先人達の魂は基本的には移っているんでしょう、
そういった点からは、この「摩崖の五輪塔」の存在とは、
現在ではお墓というよりは「シンボル」的なものですね
「ここに我ら一族は生きた、そして皆と共に栄えた」
その証というか、ちょうど「記念碑のような存在」といったら、
自分の中でのニュアンスが、他者にも伝わりやすいのかもしれません
(※でもまぁ今でもここに何となく先人の「気配」を感じるので、たまに伺ってお線香をあげてるのですが)

「わが家」は、平安時代の終わりの頃という、果てしなく遠い昔に現在の神奈川県平塚市の、
北金目遺跡群や塚越古墳の辺りの「佐奈田/実田/眞田/真田(さなだ)」と呼ばれる地域から、
一族郎党揃って、この南房総の三原郷に引っ越し(?)してきた小豪族の一党、
この祠に祀られた人達の、所謂「末裔」や「子孫」と云われる流れの一つでして、
そして南房総に土着してから850年程の間に・・
と言っても、ウチの場合は、明治・大正時代以降になってから、
主に仕事の都合で三原郷を出て、徐々に移動し、細々と広がり・・、
その結果、今では関係の深い墓や遠縁の墓、絶家した家の墓などが、南房総一帯を中心に点々とあるのです
もちろんわが家の直系の古い墓は、三原郷からの引越と共に、基本的に合祀・移転などをし、
現在、南総の実家のそばのお寺にあるんですが、
このお彼岸の時期は、その実家のお墓参りがてら、
他の縁のある墓も、幾つか一緒に周っているといった状況です
まー、それら縁の遠くなったお墓は、世間様同様、順番に忘れていっちゃえば気楽でいいんでしょうけどね、
色々な深い縁や恩を先人達から聞いちゃってるとねー、なんだか人として知らなかったふりも出来ませんわー
その結果、お参り箇所が増えるといった塩梅です
・・全く損な性分です(;´∀`)
そんなこんなでこのお彼岸は(も?)、この前買い替えたばかりの、ひときわガラが悪い真っ黒のSUVで、
この南房総一帯の、お墓参りのハシゴをしてきたという次第です

あー、(-人-) ムージョージンジン ミーミョーホー ・・ <曹洞宗(禅宗)

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