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つげ義春も泊まった旅館 大多喜町 大屋旅館(オバケ旅館) [房総半島 外房 大多喜町]


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https://youtu.be/I84gqYEQfZk




つげ義春氏の漫画のモデルになった(泊まったこともある)大多喜町の大屋旅館、
・・そんな立派な旅館とはツユとも知らず、、
今から40年ほど前の自分の少年時代にとって、この界隈は単なる遊び場で、、
近所のクソがき軍団「大多喜無敵探検隊」一同で、この大屋旅館の敷地内にも勝手に入り、
散々走り回ってた記憶があります、はい
さらに暴露すると、当時そんなクソガキ軍団の中では、
大屋旅館を、コードネーム「ボロ旅館」とか「オバケ旅館」とか言ってた憶えがあり・・アゥヽ(´Д`;)ノアゥ...
本当にすいません!!
私がわるかったです!!
もうしません!!
・・もしかしたらそんな自分達を、旅行者のつげ氏は見てて失笑してたかもなぁ、、
いやぁ~、知らないってコワいわぁ~(´д`;)

東京から高速使って1時間半ほどと比較的近いのに、これだけの圧倒的な雰囲気、、
もちろんメディアが放っておくワケもなく、
今までにも何度かいろんなドラマなどのロケで使われてるということです
古谷さんの金田一や、渡辺謙さんも来たそうですわ~~

しっかし、大屋旅館、まったくあの当時とかわんないや、
素直にスゲーーー( ゚ω゚ ;)

あー、つげ義春氏を知らない人のためにちょいと解説
つげ氏は、ガロなどのマニアックな漫画雑誌で連載されていた漫画家さんで、
その独特の世界観で現在でもファンが多くいる方です
ゲゲゲの鬼太郎の作者、水木氏とも親睦が深いことでも知られています
何にせよ、つげ氏は大多喜町や房総半島南部をかなり気にいってくれたようで、何度もいらしておりました
その作品の中には、「西部田村事件」や「沼」など、大多喜町が題材になったものが幾つもあります
そしてここ、大屋旅館も「リアリズムの宿」に出ていることで有名なのです
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【関連URL】
つげ義春がよく利用した旅館 寿恵比楼(すえひろ) 大多喜町
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2008-09-14-2

房総レジェンド -大多喜無敵探検隊 SINCE:197X- はじめに
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2016-01-06
[大多喜無敵探検隊 SINCE:197X]カテゴリ一覧
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/archive/c2302394348-1
房総レジェンド 日本の房総半島の伝説・伝承・昔ばなし
http://www.boso-legend.com/

大屋旅館
千葉県夷隅郡大多喜町新丁 大多喜町新丁64
http://otakitown-ryokan-oyaryokan.jimdo.com/


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大多喜町 夕暮れの町なかを闊歩する謎鳥ハッケン!:(;゙゚'ω゚'):(多分ヤマドリかキジ) [房総半島 外房 大多喜町]

あー、一つ前の日記で書いたように、
昨日は亡き父の十三回忌で南総の実家に家族総出で行ったわけですが、
その際、菩提寺のある大多喜町を周った際、
夕暮れに紛れた
一匹の謎生物と遭遇!?:(;゙゚'ω゚'):


この鳥なぁ~に?(´・∀・`)
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まー多分、キジかヤマドリのメスなんでしょうけどね
そもそも、山奥にしかいない鳥が、大多喜町の町なかに普通に降りてきているというのが驚きでした
人にもそれなりに慣れているんでしょうね、
近づいても歩いて間合いを取るだけで、別段逃げようとしてませんし・・

この大多喜町というところは、谷がやけに深く入り組んだ房総丘陵の東部に位置する町でして、
町なかを一歩出れば、都会モノが大喜びするような大自然がいっぱいなのですが、、
昨今は人口も減り、そして里山も整備が行き届かなくなったせいか、
この野鳥に限らず、イノシシやシカ、タヌキやムジナなどが里に平気で降りてきてます
自分がこの町に住んでいた30年前までは、こんなことは滅多になかったんだけどなぁ・・
何より幹線道路でデッカいイノシシが轢かれてたり、
はたまたシカを轢いて車がクラッシュした、という話を人から聞いたりと、
徐々にスゴイことになりつつあるような気がしてますわー(;・∀・)
自分も大多喜や、南総の実家に行き、その陽が落ちた帰り道で、
何度か野うさぎやイタチを轢きかけたことがありますしねー(;´∀`)
以降、山間部を抜けるまでは、なるべく安全運転で車間距離を開けて走るようになりましたが・・

ちなみにですがこの連続写真の(多分)ヤマドリは、獲って毛を毟って食べるとウマイんですよwwwwww

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置き土産の農協の株、喫茶店、そして木原線、父親の幻影を追った一日 ( ´ー`) [房総半島 外房 大多喜町]

あー、先週の平日、仕事を一日休み、
千葉県の房総半島南東部、古くからの外房の拠点の町「大多喜町」に、所用で家族全員で行ってきました
ここは過去に何度もblogで書いている通り、自分が子供の頃住んでいた町です
・・で、今回の用事とは、父が付き合いで買った大多喜農協(当時)の持ち株を引き継ぐ手続きのため、、
農協は土日にやっていないんで、平日にいくしかないのですわ
株券自体は、ホント一回の呑み代ぐらいしかないのですが、
何にせよ、父親の残したものなので、まずは自分が引き継いでから、その利用法を考えようと思います
途中、こちらで隠居生活を送るゴッドマザー(母親)を拾い、車は一路、大多喜町の農協へ・・

この大多喜の農協、現在は「JAいすみ 大多喜支所」となっており、
場所も当時の大多喜駅のそばではなく、上瀑(かみたき)地区に昔からあったものに統合されちゃってるみたいですね
どうでもいいけど、この辺り、古墳とか多いんだよなぁ・・
大多喜町が歴史上で、はっきり地名が出てくるようになったのは戦国時代前期~中期にかけて、
当時は「小田木」「小田喜」と呼ばれており、真里谷武田氏や、里見氏、正木氏ら荒くれた戦国武将たちが、
この拠点となる地域を奪い取るため、血みどろの戦いをした舞台としてだよな
でもその遥か昔から、大多喜町を含む夷隅郡市地域は、古くは飛鳥時代の古事記に「伊自牟(いじむ)」、
奈良時代の日本書紀には「伊甚(いじみ)」として登場する地域でもあり、
大多喜を含め、この界隈は非常に歴史深い地域なんだなー
まーだから古墳は多いわ、古戦場はそこかしこにあるわで、、
なんでみんなそれを知らないのか、逆に不思議な感じがする
大多喜町は、この町にたった11年しかいなかった本多忠勝氏を一生懸命売り込むより、
更にもっと深い、これら地域の歴史を観光の売りにすればいいのになぁ・・(´・ω・`)DSC_0478.JPG
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・・で、かなりな量の書類に記入し、無事、父親の遺産(?)である農協の株は引き継ぎ完了!
ついでなんで、母親を乗せたまま、家族で大多喜町内を車で流す、と・・w

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まー、この町をまわるとね、当時の父との思い出がいっぱい見つかるんですわ、、
ここなんてその一例、喫茶「緑の館」
ここは新聞記者だった父が、よく原稿を書きに通った喫茶店の一つで、
小学校が夏休みの時には自分も連れて行ってもらい、色々ごちそうになったw
ここはアイスコーヒーやクリームソーダが美味しかったよなぁ・・(´∀`)
店内は明るくて、子供の自分にも非常に居心地が良いお店だったです
でも現在は閉店して久しく、蔓草で覆われまくってますわ・・
この他にも、夷隅支庁舎(今は中身が違う?)の入口にあった喫茶「砦(とりで)」が、父のお気に入りの喫茶店だった
そこにもちゃっかり自分はくっついていって、ガキンチョのクセに、偉そうにコーヒーをすすっていたというww
そこも10年以上前にお店を閉めちゃいましたが・・
で、そんなこんなで父は新聞記事が書き上がると封筒に入れて、その足で大多喜駅に持って行きました
大多喜駅から木原線で、千葉日報の本社がある千葉市まで、列車貨物便で、原稿を届けてもらっていたのです
FAXやパソコンがない昭和50年代の新聞記者の地方支局の原稿の出し方はこんな感じでした

あー、そして今の「いすみ鉄道 大多喜駅」ですが、おりしもあの頃を彷彿とさせる列車が多いのです!
マジに昭和50年代、自分が子供の頃の大多喜駅に逆戻りしておりますわ
それを家族全員で眺めてきましたDSC_0481.JPG
ゴッドマザー:「あらー、なつかしいわよねー木原線!(´∀`)」 <いや、いすみ鉄道だ
嫁さん:「ホラホラ、赤いデンシャッシャーよ」 <いや、これは電気で走ってないので列車 or 気動車
子供:「デンシャッシャー!キハラシェン!(木原線)」 <写真に心霊写真のように手だけ写ってるしw
オレ:「・・・」 ε- (´ー`*)フッ

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まー、なんだかんだ、亡き父親の背中を追った一日でしたわ( ´ー`)フゥー...
そして近々、南房総市和田町に行き、今度は祖父や曽祖父、更にその親達の背中を追う一日が控えている、と


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大多喜八幡神社 お神輿オゥラ!オゥッサ!( `・∀・´) [房総半島 外房 大多喜町]

あー、この前、大多喜お城まつりに行った際、
自分が子供の頃に住んでた地である、大多喜町大多喜のお神輿が出てたんで、
ちょっと写真撮影してきました
いやー、、思わず懐かしさにホロッっときちゃいましたよ 。・゚・(ノ∀`)・゚・。

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時間は夕暮れ時なので、写真が光量不足でピンぼけ気味でしたが、、
その大多喜集落のお神輿の雄壮さは、付近のお神輿の中では最大というだけあり、中々に立派なものです
ここのお神輿の掛け声は、世の中一般的な「ワッショイ!ワッショイ!」ではなく、
他の外房地域同様、基本的に「オゥラ!オゥッサ!オゥラ!オゥッサ!∞(エンドレス)」ですね
これもムリヤリ文字に起こしてみているので、、実際に聞くのとはちょっとニュアンスが違うかなぁ・・
巧く伝えられないわ(´・ω・`)
そしてこれらの掛け声での渡御の最中に、都度都度、神輿歌が入ります
で、揉み方も意外と激しい、綺麗に波を打つように前から後ろから上下させます
神輿の掛け声というと、、これが隣のいすみ市大原の「大原はだか祭り」では、
「ウゥーラ!ウゥーラ!」または「ウゥーララ!」と掛け声しながら、神輿担いだまま走り回るんだよな、、
ありゃー何度見てもスゲーわw

えー、話は戻って、大多喜町の大多喜地区とは、従来の町の中心地でありまして、
明治の前までは、所謂「根古屋」と呼ばれる土地柄で、そもそも大多喜城の外郭、敷地内だった地区です
このお神輿の納まる神社「大多喜八幡神社」は、そもそも大多喜城の大手門の跡にあります

おたぁきぃ~いぃ、はちまんさぁ~まぁ~
赤いモンがぁ~お~す~き!♪
染めてあーげーまーしょぉーよー、花ぞぉ~めぇ~にぃ~♪
ソラソンソンコ~、ソンソンコーソンソコ~!
おおぉ~きなソンソコへ~♫


・・今でも歌えるんだオレ(^ω^)
一回アカペラでやったらドン引きされたけどw <都内のカラオケ屋

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大多喜八幡神社

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大多喜町大多喜(旧大多喜城敷地内)の風景


【関連日記】
赤いモンがお好きな大多喜八幡様は現在建替え中 大多喜町大多喜(根古屋)
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2016-07-19-6
大多喜八幡神社 お神輿オゥラ!オゥッサ!( `・∀・´)
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2015-09-29
大多喜町の シャア専用八幡様
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2012-01-02-2


千葉県夷隅郡大多喜町大多喜


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武者行列 2015年 第41回大多喜お城まつりに行ってきた(゚Д゚) [房総半島 外房 大多喜町]

あー、このシルバーウィーク期間中は、色々と公私共に忙しく、
昨日、9月27日も、南総/外房の隠居の家に行ってきました(ヽ'ω`)
で、この日は、自分が子供の頃に育った大多喜町の「大多喜お城まつり」の日でもありまして、
母親も引き連れ、イソイソと見に行ってきました

自分は小学生の頃、第4回時の武者行列に参加したんですが、
このお祭り、今年で41回目なんですね~、感慨深いものがあります
しかし当時と比べると、段々規模が小さくなってますね、
地元小学生の武者行列は、少子化のせいで減ってるのはわかるんだけどなー、
それ以上に、やっぱ予算がないんだろうな(´・ω・`)
規模の縮小以外にも気付いた点として、、
昔は比較的軽装備で一番多い足軽や、資材運搬のリアカーみたいなのもあり、
その当時の武者行列は、今よりかなりリアルなものだったように記憶しています
しかし昨日見たのは大鎧ばっかり、
つまり司令官クラスの出で立ちをした人ばかりがやたら多く、まるで鎧コスプレ大会みたいだった(;´∀`)

そして大多喜町の、この本多忠勝の武者行列とは、
多分、以下のどれかをモチーフにしているんだと思いますが・・
1. 天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収される際に、
 大多喜城にやってきた本多軍の武者行列、この時に対応したのは里見氏側の代官
2. ここから関ヶ原の合戦に向かった
3. いすみ市にある万木城の土岐氏を攻めに行った

そもそも本多忠勝さんは、大多喜城には10年弱しかいなかったので、
軍勢引き連れて、彼が大多喜城から出陣する回数は、上記のように大してなかったと思います(´・ω・`)
もちろん武装していない平和な大名行列ってのは、それなりにあったとは思いますが、
このお祭りでの出で立ちは、鎧武者に剥き身のナギナタ、槍とか装備だもんなーw
・・で、よく見ると、大多喜城から追い出された筈の、里見軍や正木軍、
さらには徳川軍に敵対した北条軍の大鎧も一緒に闊歩しているし・・
あぁ!彼らは捕虜か!!(察し
だから鎧武者なのに馬にも跨がらず、終始歩いているんだな
各々方、オイタワシヤ(´;ω;`)
心中お察し申し上げまする・・(-人-)
※この時代のウチの先祖は、本多忠勝氏に大多喜や勝浦を明け渡した正木氏や里見氏のとこで重鎮してたようで、
 小田喜衆と呼ばれていたようです
※小田喜衆について→「大多喜町史に書かれた先祖達「小田喜衆」の苦悩、そして帰農という選択をした

以下、写真を50枚近くUPしときます
曇りがちで、しかも陽が傾いてきていたというのもあり、
光量不足のせいか、写真がみんなピンぼけ気味になっちゃいました

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【過去の大多喜お城まつりの日記】


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