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新たな武士の台頭 【「ねずさんの ひとりごと」より転載】 [日本の隠された歴史]

以下、ねずさんの ひとりごと」blogより転載
http://nezu621.blog7.fc2.com/



新たな武士の台頭

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1715.html

2012112613320597f.jpg

「武士」と書いて「もののふ」とも読みます。
「もののふ」というのは「物部」で、「もののべ」とも読みます。
「もの」というのは、「えもの」つまり武器を指します。
ですから「物部」は、武器を扱う氏、つまり武門の長であったわけです。

時代が下って奈良時代になると、菅野真道らが編纂した延暦16(797)年の「続日本紀」の巻八に、「文人武士は国家の重んずる所」という一文が出てきます。
これが我が国における「武士」という言葉の初出になります。

太宰府における防人や、貴族の持つ荘園の警固兵など、古代における武士は、いまの時代にあてはめれば国軍の兵士や、民間の警備員のような役割の者達だったといえます。

ところが平安時代後期になると、貴族による全国的な支配秩序が崩れ、それに代わる私的な権力を持つ者達が現れました。
もともと、貴族の持つ荘園は、貴族や大寺院が自分たちの力で開いたものではなく、地方の有力農民などが開墾した農地が寄進されてできたものです。

従って名目上所有者は貴族ですが、実態は有力農民たちが管理運営していたものでした。
農地は平安時代を通じて、さらに開墾されていきますが、そうした農地は必ずしも貴族や大寺院に寄進されず、農民達が自分たちの手で守り抜くものとなっていきます。

 はじめのうちは、土地は開墾すればいくらでもあるものでした。
けれど時代が進むと、当時の技術で開墾できるところは開墾しつくしてしまい、点在していた農地は、その境界を他の農地と接するようになります。

すると、治水利水権や、土地の境界線をめぐるもめごとが起こる。
貴族や大寺院の土地ならば、もめごとの調停は、貴族や大寺院側が行うけれど、それが私田だと、そうはいきません。
自分たちの力で解決しなければならない。

そこで農民たちは互いに結束して武装し、半農半武の武士団を形成しました。
律外の民としての武士のはじまりです。
彼らは自分たちの領地を守るために、一所懸命となって働きました。
食うか食われるかの戦いの中で、彼らは勇敢であることを誇り、卑怯を軽蔑し、武士の誉れを大事にする存在となっていきました。

そしてより大きな保護を得るために朝廷の武士(いまでいったら国軍)である源氏、平氏という大きな「家」に帰属し、そこで本領を安堵してもらうかわりに、いざというときには一命を投げ打って働く奉公をする御家人、つまりその一家に所属する集団となっていきました。
新たな「武士」の誕生です。

つまり、言葉は同じ「武士」でも、鎌倉以前の「武士」と、鎌倉以降の「武士」では、その意味合いがまるで異なるのです。
鎌倉以前にも武士はいました。
防人とか北面の武士などといった存在です。
けれど、それらは、いまで言ったら国の軍隊であり、地方公共団体の警察官のような存在です。

ところが鎌倉以降の武士は、そうした公的軍人や警察官等と異なり、庶民を代表して立ち上がった人達です。
つまり「領主」です。
刀を持てば武士というわけではありません。
また領主とともに戦いに出向く領民は郎党であって武士とは一線を画した存在です。

江戸時代、「鎌倉武士のようだ」という言葉は、武士に対する最上級の褒め言葉とされていました。
その鎌倉武士が尊敬されたのは、彼らが農地共同体の小領主であり、かつ、勇敢で領民思いであり、誰からも尊敬を勝ち得るだけの存在となっていたからです。

そしてそういう武士達が、元寇という外圧を機に、国を守るために敢然と立ち上がり、蒙古の大軍を跳ね返して、日本という国を守り抜いた。
そのことが結果として、本領を安堵するだけでなく、日本を護る、すなわち「公」のために忠義をまっとうする、つまりより大きな正義のために生命をも投げ打つ「武士」として、我が国に完全にその存在を定着させていったわけです。

このことは、民の側から見た武士達が、私利私欲ではなく、「公」という概念に仕える公明正大な存在となっていったということも同時に示しています。

ところが、日本を二分する武士勢力である平家は、源氏によって討たれました。
なぜでしょう。

平家は、伊勢平氏の棟梁であった平忠盛の長男清盛が、保元の乱、平治の乱で軍功をたて、武士としては初めて太政大臣に任ぜられたとされています。
軍功があって太政大臣にまで出世したのなら、武家の棟梁として申し分なしです。
何も「平家を討とう」などということにはなりません。

にもかかわらず清盛が民の顰蹙を買い、結果として家を滅ぼす原因となったのは、清盛が朝廷に食い込んでいったことそのものと、大きな因果関係があるといわれています。

それが何かと言うと、なるほど清盛が乱に勝ち抜いたことは事実なのですが、その際に彼は西日本の水軍を傘下におさめていたのです。
当時の水軍というのは、国際私貿易の担い手でした。
支那や朝鮮に船を繰り出し、私的交易を図って巨富を得ていたのです。

宝船の絵といえば、七福神が乗っかっていて、船には金銀財宝や米俵が満載されている図が描かれていますが、まさに国際貿易は、海難事故というリスクはあったものの、成功して帰還すれば、巨利を得ることができました。

少し時代は前後しますが、宝徳年間に明に渡った商人の楠葉西忍の記録によれば、明で250文で買った絹糸が、日本に持って来ると5貫文(5000文)の値で売れ、日本で10貫文で仕入れた銅が、明で4050貫文で売れたそうです。
刀剣類や漆器などは、やはり2〜30倍の値段で売れたと書かれています。
つまり、私貿易は、それだけボロ儲けできる商売だったわけです。

そうした利権を手中に収めた清盛は、朝廷に金をバラまき、地位を上昇させました。
なにせ時代は平安後期です。
律令制度の令田制度は崩れ、朝廷や貴族達の税収も減っていた。
そこへ登場した清盛は、まさにカネのなる木をもって、政治権力を買い取っていったわけです。

今風にいえば、清盛の治世は、まさに経済最優先の治世であったということができるかもしれません。
こうして政治権力を得た清盛は、娘の徳子を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言われる時代を築いたわけです。

要するに清盛の力の源泉は、国際交易によって得た財力にあります。
従って清盛は、政界に力を持てば持つほど、ますますその財力を強化する必要に迫られます。
そしてそのために、清盛は、ますます国際交易に力を入れました。

このことは、交易の相手国であった支那、朝鮮との国交の親交化にもつながります。
当初は、商売のための財物が日本に流入するだけだったものが、次第に人的交流も強化されていきます。
はじめのうちは、それなりの人格者や高僧、あるいは技術職人などが渡来しますが、年月を重ねるにつれ、戦乱の続く大陸から難を逃れ、親戚を頼って日本に渡来する者たちも増えていきます。

私は、支那人や朝鮮族が、必ずしも悪人ばかりとはいいませんし、中には本当に尊敬できる人格者も数多くいるし、また普通の生活をし、郷に入ったら郷に従うまっとうな人達が大半を占めるということは、否定するつもりはありません。
けれど、人肉を食し、人を殺したり集団で弱い者、女性などをかどわかし、暴行したりする不逞な者達がそうした渡来人の中に数多く混じっていたであろうことも、これまた否定できない事実です。

結果として、それまでの平安日本の社会ではあり得ないような悲惨で残酷な事件が、国内で頻発する。
農作物や家畜が、半ば公然と盗まれる。
そうした治安の悪化は、民の怒りとなって蓄積していきます。

とりわけ東国の武士達からみれば、流れ者が乱入してきて治安を乱す。その治安の乱れ(犯罪行為)は、そのまま本領を安堵すべき武士の不名誉となっていきます。

そうした世の中の乱れを産んだ平家には、当然に民の怨嗟の声が充満してくる。
そしてその声は、はじめは小さかったものが、次第に世論となり、「平家討つべし」の大合唱が起こりはじめます。

そして一部の武士達が、源氏の嫡流である源頼朝を担ぎ上げ、中央政府を仕切る清盛に対して反乱を起こす。
はじめは小さな勢力でしかない頼朝派は、乱をすぐに鎮圧されてしまうけれど、「頼朝立つ!」の報は、東国を駆け巡り、ついには平家を滅ぼし、鎌倉政権の樹立に至っています。

こうした一連の流れは、似たようなケースが、我が国の歴史には度々登場します。
そしてそのことが、我が国の歴史が、だいたい150年から200年単位で、開国と鎖国をくり返す歴史となっています。

日本は、明治の開国から、今年で144年です。
開国政策は、我が国に江戸日本では考えられなかったような富をもたらした一方、大東亜戦争の焼け野原を招き、そして戦後復興という、未曾有の経済成長をもたらしました。

けれどその一方で、日本人の常識、経済的自己の利益よりも公に尽くす、あるいは人と人とが仲良く暮らす、互いに信頼を基礎におく安定した社会構造を大きく破壊してきました。
そして昨今では、日本的「和」よりも目先の利権を最優先する政党が、政権与党に座るという事態まで招いてしまっています。

そしてそのことで、日本社会は、わずか三年で富を海外に流出させたのみならず、人々の生活は苦しくなり、巷には政権与党に対する怨嗟の声が満ちるという情況になってきています。
そしてその一方で、民の幸福や日本社会の安定を願う、保守主義者ないし日本主義者が、大きく成長してきています。

思うに、いま立ち上がりつつある保守勢力、あるいは日本主義者、日本派、名前はいろいろな呼び方になっているけれど、その日本派の人々は、いわばかつて、民の私権を守るために立ち上がり、公に尽くすことを最大の使命と考え、我が国を守るために、自発的に立ち上がった人達です。
ということは、いま目覚め、立ち上がりつつある人々は、かつて領民を守るために立ち上がった鎌倉武士同様の、現代版「武士」といえる人達といえるのではないでしょうか。

もちろん社会構造が違います。
ですから、現代版の「武士」たちは、刀を腰に二本差すようなことはしません。
けれど、その思想と行動は、常に日本人としての日本の民とともにある。
それが武士です。

そして、つい最近まではバラバラに行動していたその現代版「武士」達は、いま安倍総裁という棟梁を得て、新たな日本つくりの段階にはいろうとしています。
新しい時代のはじまりです。

歴史は繰り返すといいます。
当面は日本は大乱となるかもしれません。
けれど、それは新たな日本を築くための産みの苦しみなのです。

私達は、誇りある日本の明日を信じて、いま、立ち上がったのです。
勝ちましょう! 衆院選!!


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「勝てば官軍、負ければ賊軍」最初に舵取りを間違えた明治維新を見直す【転載】 [日本の隠された歴史]




http://www.funaiyukio.com/ikedaseiji/index_1206.asp より転載

このページは、元幹部陸上自衛官で、2010年の12月に40年間に及ぶ自衛官生活にピリオドを打った池田整治さんによるコラムページです。池田さんが自衛官在任中に書かれた著書『マインドコントロール』(ビジネス社)は大変好評です。このコラムでは主に、“社会の真実”“家族愛”“自然との共生”をテーマにお届けします。

ガイアのつぶやき・・・その2

 「もう時間がありません。最後のチャンスのヒントを与えます。あなた方が最初に舵取りを間違えた明治維新を見直すことです。」

 勝てば官軍、負ければ賊軍。
 明治維新から語られてきたこの言葉の真の意味をどれくらいの日本人が自覚してきたでしょうか。
 今では江戸時代の市民社会もかなり見直され、自然と一体化した、士農工商の身分に関係ない共生の「パラダイス社会」だったことも徐々に理解されてきました。その象徴として、江戸市民が身につけていた「江戸仕(思)草」も紹介されてきています。傘かしげ、肩引き、お心肥やし、こぶし腰浮かせ、時泥棒などがその代表的なものです。でもそれは、「形」としてかろうじて伝え残っているもので、大切なことは、その根っこにある、自然も含む一切のものとの共生の生き方、つまり日本人本来の「こころ」「生き様」なのです。これを今では「ヤマトごころ」と言っているわけです。
 つまり江戸時代は、社会を構成する「人づくり」が、講や寺子屋あるいは寄り合い等でシステム的にもキチンと行われていたということです。江戸仕(思)草では、「3才こころ、6才躾、9才言葉、12で文(ふみ)、15理(ことわり)で末決まる」といわれていました。
 言葉というのは、あいさつだけでなく、大人と同様の世辞が自分の言葉でキチンと言えることをいいます。つまり、「おはようございます」に加え、「本日はお暑うございますね」というような人間関係を築く大人の会話力を身につけることを意味します。
 このために幼少時から、意味はわからなくとも古典を丸暗記させることを徹底したわけです。この「日本語(やまとことば)の語彙力」が、その後の学問、教養としてだけでなく、人間力養成の基盤となっていったわけです。
 12才文(ふみ)というのは、12才になれば、両親の代わりに代筆で手紙をかけるということです。さらに15才理(ことわり)というのは、世の中の仕組みをしっかり理解して、店の番台を親の代わりに勤められるようになることなのです。

 このようにして心豊かに何世代も積み重ねられて育まれた50万の市民が暮らす江戸は、まさに人間性豊かで、心温まるパラダイス社会だったに違いありません。ちなみに江戸100万人の残り50万のほとんどは、参勤交代でやってくるお登りの地方侍たちです。歴史的に文書で残っているのは、この武士たちの、いわゆる公的な書物であり、市民の文化は文書として残されなかったのです。
 それを唯一、絵で見せて残しているのが浮世絵と言えます。ところが明治政府は、この江戸を否定して成り立っているのですから、なんと江戸仕草そのものさえも禁止してきたのです。
 この為、戦後に日本を統治したGHQがこの江戸仕草を「解放」したときに、秘かに江戸仕草を伝えていた人たちがお礼にGHQを訪れたほどです。こういう面までも考えてGHQは、二重、三重にマインドコントロールを戦後の日本社会にかけていったわけです。


 ところで、江戸末期に日本を訪れた西欧人たちは、江戸の市民生活を見て、「この世のパラダイス」と手記に書き残したり、母国の家族等に手紙で送っています。彼らが江戸社会をどう感じたのか、訪れた日にち順に追体験的に見ていきましょう。
 もちろん、彼らは旅行の物見遊山で来たわけではありません。欧州を起点とする白人による世界の植民地化前線の東回りと西回りが巡り会う最終局面として、黄金の国・ジパングの植民地化が究極の目的でした。もっとも、彼らも世界金融支配体制者たちに使われる駒に過ぎませんが。
 彼らは航海上、日本に来る前に中国に立ち寄ります。その中国を「ウジ虫を知らずに踏んでしまった気色の悪い気持ち」であると書いています。居住区は汚いし、子どもたちは「ギブ・ミー・マネー」であり、「売られている製品は全てコピー製品であり、吐き気をもよおし、二度と来たくない」、とまで母国の母親に書いた随行員もいます。そこからさらに極東の地である日本に行くわけですから、あまり期待はしなかったと思われます。
 ところが日本に一歩踏み込んだ途端に大讃辞に変わります。まず、船からみる国土が美しい。緑豊かな野山に、綺麗に整備された段々畑や棚田がとけこんでいます。これまでの世界のどこでも見たこともない自然と人工物がシンクロした絵画そのものの立体風景です。
 下田あるいは横浜の寒村に着くと、浮世絵で見た色鮮やかな着物を着た健康そうな子どもたちが、「うちにおいでよ~」と手を引きます。その農家に行って見ると、士農工商で一番貧しいはずの農家は、四辺が綺麗に生け垣で仕切られ、その中に小さないながらも見事な日本庭園と色鮮やかな鯉が泳ぐ池があります。家に入れば、土間があり、床の間には綺麗な掛け軸がかけられています。
 当時の欧州では、彼らの階級は「農奴」であり、文字も書けず、何世代も藁葺きの中で雑魚寝生活でした。つまり、世界でもっとも裕福な農民が暮らす国、それが日本だったのです。
 個人宅にもお風呂があり、さらに出される食事にビックリです。なんと陶磁器が使われています。他の国では、このような食器は貴族以上でないと使っていません。しかも海の幸、山の幸に溢れ、自然の風味を最高に活かした世界最高の美味しい健康食です。特に、欧米人さえ見たこともない醤油や味噌など健康に素晴らしい発酵食品を使っています。
 帰り際には、農民であるはずの彼らが書いた掛け軸までプレゼントされます。最下級の農民が芸術的な書道が出来ることに最後までビックリ仰天です。せめてお礼にペンでもと渡そうとすると、頑なに受け取りません。
 そうなのです。これが日本の「おもてなし」であり、日本各地のどこでも日常から旅人たちに振る舞われていた日本人の慣習そのものだったのです。ちなみに私が小さい頃の四国伊予の実家では、このおもてなしをお遍路さんたちに行っていました。

 彼らは、その後陸路で江戸に向かうのですが、街道が綺麗に整備されていることにも驚きます。キチンと歩ける道路が整備されているだけでも、世界広しといえども当時は日本しかありません。しかも街道沿いに旅人のための日陰を提供する松などの樹木が植えられています。さらに一定間隔で宿場町が整備され、飛脚や駕籠(かご)、さらに宿や飲食店なども利用できます。街道がわざと曲がっているかと思えば、遠景に富士山、近景にお城というふうに、ビューポイントを設けるなどの情緒溢れる道造り、町造りを行っています。

 さらに江戸に着くと、まさに人類史上初の大公園都市です。
 中央に江戸城を中心とした大公園があります。それを核心に300の武家屋敷の大公園があり、さらにそのまわりには1500もの寺院等の中公園が配置されています。市民の小さな家にも庭があります。鳥瞰図的に見れば、まさに地球唯一の地上の楽園自然都市です。町造りも合理的にしっかりしていて、大通りの門戸を占めると外部からの侵入は困難で、治安上も安心できます。
 行き交う人々は、江戸仕草の体現者であり、挨拶や話している様子も明るく、そこにいるだけで心温まります。野の鳥さえも人の肩に留まってさえずっています。一番気性の荒々しいと思われる船乗りが集まる船着き場に行ってみると、聞こえてくる言葉は、「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」ばかり。
 彼らは、日本人が自分たちのことを南「蛮」人という意味がよくわかったと手記にも書いています。
 実は、現在のUCLA(カルフォルニア大学ロサンゼルス校)では、国際関係論で、「19世紀のパリは、江戸を見習って造った」と教えているのです。
 まさに、ゴッホが日本の浮世絵から江戸を学び、そこからヤパン・インプレッション(福沢諭吉が明治政府の意を汲んで「印象派」と意訳。実際は、日本浮世絵派あるいは「日本主義」)が生まれ、世界の市民が解放されて行ったのです。そういう意味でも、日本は世界の「雛形」だったのです。


 江戸の市民生活の素晴らしさのエピソードとして完全リサイクル有機農法を紹介します。
 現代の都会生活でもアパートやマンションの集合住宅が多いように、江戸でも「長屋」がありました。大家が50両払って代官から営業権を購入します。
 家賃はいりません。さらに「老人」や「病人」が入居人として歓迎されたと言います。住人の仕事は「用をたす」ことだったからです。
 ちなみに、当時、上下水道が完備していたのも、世界で江戸だけです。その下水道に、「トイレ」の排泄物を流すことは厳禁です。それだけ、衛生管理観念も進んでいました。下水道にトイレの排泄物を流すようになったのは、「文明開化」した明治維新以降なのです。欧米化が日本文明を劣化させた一つの例証です。
 長屋で溜められた「うんち」は、郊外の農家が買い取りに来ます。その売り上げが、現代価格で年1000万円ほどになったようです。つまり、それだけ現金を出せた農民も豊かだったのです。
 農家では、それを肥だめで微生物利用による完全有機肥料として活用しました。世界で初の完全有機リサイクル農法だったわけです。老人や病人は、消化力が落ちているので、排泄物の中に「有効成分」が多く、貴重な存在として大事にされたわけです。正月などには、わが子のように住人に大家さんがお餅などを配ったのです。

 このような市民のパラダイス国家を運営していたのが、侍たちです。彼らは、武道に励みながら、市民のために誠実にこの国を切り盛りしていました。なにせ300諸藩も、市民も一切江戸幕府に税金を納める必要はありませんでした。
 完璧な地方自治で、経済的にも独立し、幕府も各藩も、自己責任でキチンと運営しなければならなかったのです。組織・制度上からも為政者たちが、エゴの「利権」に走ることなど出来なかったのです。
 しかも彼らは、生まれたときから15才で元服するまで、「武士としてのこころ、躾、言葉、文、理」を、市民以上に藩校などで、専門の講師たちに徹底して訓育されました。優秀なものは、身分にかかわらず、他の藩校や幕府の昌平校などに藩費で留学もできました。この中には、商人や農民の優秀な子どもも選抜されていました。武士になれたのです。このように生まれたときから高度の人間教育を受け、いざというときは命さえ惜しまない世界最高の利他を体現する為政者、それが江戸時代の侍=武士だったのです。
 彼らが存在する限り、これまで植民地化した国々のように、武力で制圧することもできません。軍艦10隻持ってきても、上陸できるのはせいぜい数百人です。万単位の武士の誠の中では身動きもできません。


 この日本をいかに植民地化、つまり金融支配するか。
 それには、無私の「武士道精神」「ヤマトごころ」を徹底的に排除し、個人の「利権」を基礎にする国造りに変えるしかありません。このためには、武士階級、端的にその象徴の「江戸」を完全否定しなければなりません。
 そのために、武士(薩長)でもって武士(江戸)を排除する。これが明治維新の真実です。
 こうして見ると、明治政府が極端な欧米化政策をとった本当の理由が見えてくると思います。彼らは世界金融支配者の裏からの支援を受けて、政権に就きました。世界が称賛してモデルとした江戸のパラダイス社会を徹底して否定するしか彼らの生きる道はなかったのです。
 西郷隆盛と勝海舟の会談で無血江戸入城となったことになっていますが、それはあくまで勝った方の官軍史観でしかありません。実際には、勝海舟は江戸の東側の裏戸をあけて江戸市民を避難させました。店には番頭一人置いて戸を閉めていたと言われています。江戸の周辺は、当時は森林に覆われていました。この森林を利用して逃げ延びたのです。何故なら、「江戸仕草」の体現者たちは、新政府軍の武士たちに老若男女にかかわらず、わかった時点で斬り殺されていったからです。維新以降もこの殺戮は続きました。この「史実」は、明治維新の政府の流れを汲む日本では、未だ歴史のタブーとなっています。
 引き続く、東北での戊申戦争も真実は異常です。震災後、いわき市に講演に行きましたが、東北では、戦争と言えば、大東亜戦争ではなく、いまだに戊辰戦争を指します。なぜでしょうか?
 ヤマトごころ、武士道で育った日本人は、喩(たと)えまがい物の錦の御旗とわかっていても、弓矢を引くことはありません。東北の武士たち、つまり15歳以上の男子は、城に集まり武装解除の準備をしていました。街には姉妹や母、祖母たちしか残っていません。そこに上陸してきた新政府軍たちは、こともあろうに残っていた子女を強姦・陵辱・殺害そして火を放ち廃墟として行ったのです。
 この惨状を知り、死を賭して戦わざれば、もはや武士とは言えません。こうして東北の真の武士たちは、最後の15才の白虎隊まで戦って散華していったのです。この「史実」も日本ではタブーとなっています。しかし、地元の人々のこころを消すことはできません。
 彼ら「官軍」が江戸に帰り、勝った勝ったとはしゃぐのを見て江戸市民は、
 「これで日本も500年とは言わないが、300年は時代を(つまり戦国時代に)遡(さかのぼ)ってしまった。彼らは三代もしないうちに、この国をイギリスやアメリカに経済的に売ってしまうだろう」と影で嘆いていたのです。
 三代後とは、まさに現代です。完璧に世界金融支配体制の忠犬ポチ公として、国民の健康と安全とを犠牲にして、彼らに国民が背に汗して稼いだ日本円(税)を貢ぐ現代の為政者たちの姿を、当時の江戸仕草の体現者たちは予言していたのです。


 ちなみに150年前の浮世絵に、現在のスカイツリーと同じ場所・高さのタワーが描かれています。新聞でも江戸時代の予言と紹介されました。私には、友人の光明氏のような当時の霊能者が、未来の日本を見て、神を憚(はばか)らぬバベルの塔として警告しているとしか思えません。亀戸という地名は、洲が亀の甲羅のようにあるから付けられた地名です。そんな海である砂州の埋め立て地に、世界最高の高層建築物を建てるなど、東京直下型などの地震の想定内として真剣に考えたのでしょうか?
 いずれにせよ、「征服者」であった薩長主体の明治政府は、徹底して江戸を否定しました。世界の自由民主化の原点であった浮世絵の歌川派さえ解消させたのです。つまり、日本のまごころ、ヤマトごころの否定でした。それ故、極端な欧米主義に立脚するしかなかったのです。こうして、欧米人が認めていた「世界のパラダイス・江戸日本社会」を「自己否定」したのです。

 つまり出発当初から進路を誤ってしまったのです。この明治維新の暗黒面をキチンと反省せずして、日本の再生もありえないでしょう。最近でも、明治維新は素晴らしかったが、戦後のGHQの占領政策で日本はダメになった、ときめつけています。これでは、またまた元の木阿弥になってしまいます。
 明治維新の反省が全くないから、ガイアの今回の警告もまったく無視して、世界金融支配体制者に影で操られた明治政府の構造と意図を引き継ぐ現為政者たちが、引き続き原発再稼働の滅びの道をまっしぐらに進んでいるのです。彼らを見ていると、後ろから何ものかに脅されているかのように、既存の原発等利権の維持拡大に顔を暗く引きつらせながら邁進しています。それが世界金融支配体制の中の核エネルギー部門であることは論を待ちません。

 いずれにせよ、とても今生の本来の目的である霊性を向上し、この地球文明を未来の子どもたちのために、5次元社会へ責任持って導くと自覚しているようには見えません。もう彼らの好きなままにさせてはいけません。原発無き、本来の宇宙エネルギーの道へ舵をいますぐ切り替えなければなりません。
 ガイアのレッドカードが目前に迫っています。それは、東海・東南海・南海連動型大地震、それに引き続く富士山噴火、そして壊滅的な東京直下型巨大地震となって現れるでしょう。
 雛形の日本がこの惨状ですから、世界はさらに、巨大火山噴火、核戦争、ウィルス感染等々で現代文明そのものの破滅へとなりかねないでしょう。

 再度問います。
 今我々は、滅びの道を歩んでいるのでしょうか。永久(とわ)の道を歩んでいるのでしょうか。あるいは、まだ引き返せる位置でしょうか。
 3.11フクシマをガイアの警告と認識できたのでしょうか?

 いえ、あなたはどの道を歩みたいのですか?


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昨日4/29は「昭和の日」でした、国歌「君が代」についての面白い話 【転載】 [日本の隠された歴史]

昨日4/29は「昭和の日」でした、
こういう、所謂「旗日」の意味を、現在の人達はどれだけ理解してますかね
同じ日本国民であれば、ある程度、その意味を理解しておきたいところですね
同じ休みをダラダラ過ごすにしても、知っているのと知らないのでは、
人の根本的な部分で大きく変わってくると思います(゚∀゚)

昭和の日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E3%81%AE%E6%97%A5

以下、そんな我らが国「日本」の国歌に関する、
興味深い記述を見つけましたので、ご紹介

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ひとりごと、ぶつぶつ」より
http://satoru99.exblog.jp/


君が代の本当の意味
http://satoru99.exblog.jp/17835915/

天皇陛下は心臓の手術を無事終えられたようで、国民の一人として心から安堵しています。医師団の発表によれば4時間弱で難無く終わったようなふうでしたが、心臓手術がとてつもない困難な手術であることは、二度の大動脈瑠の手術から奇跡的に生還した私にはよく分かります。心臓は表は肋骨が、背中からは肩甲骨に守られていますから、まずこの骨を開かなくては手術はできません。内臓の手術のような簡単な手術ではないことが分かります。

天皇家についはいろいろ言われていますが、私は天皇陛下のお顔を拝見するたびに、感謝と親しみの気持ちが湧いてきます。実際に政治を動かしているわけではありませんが、国民には知られないように日々国民のために祈って下さっていることが伝わってくるからです。時々人相の話をして、人相はその人の行いが顔に出るのだと言っていますが、現在の天皇陛下の人相は素晴らしいものがあります。慈愛に満ち、品位があふれています。法律上は象徴とされていますが、国主にふさわしく、このような方に国を治めてもらえる日が来ることを願っています。

国歌君が代は行事があれば歌われますが、本当の意味を知っている人はどれほどいるのでしょう。それは日本人のルーツを知らなければ分からないことです。般若心経なども文字だけではなく音でしか解釈できないことは知られていますが、君が代も音で本来の意味を伝えようとする意図が隠されています。これが分かると、何故闇の勢力偽ユダヤ(アシュケナジーユダヤ)が日本だけを執拗に攻撃するのが分かります。私たちの血のなかには真正ユダヤ(スファラディーユダヤ、人類の始祖アブラハムの子孫)が受け継がれているからです。

日本語      ヘブライ語          ヘブライ語の意味
君が代は     クムガヨワ            立ち上がる
千代に       テヨニ               シオンの民
八千代に     ヤ・チヨニ             神・選民
細石の      サッ・サリード          喜べ・人類を救う、残りの民として
巌となりて    イワ・オト・ナリァタ        神・予言・成就する
苔の生すまで  コ(ル)カノ・ムーシュマッテ  全ての場所・語られる・鳴り響く  

したがって歌らしくすれば

   立ち上がれ、神を讃えよ!
   神の選民 シオンの民!
   選民として 喜べ!
   人類に救いが訪れ!  
   神の予言が成就する!
   全地あまねく 宣べ伝えよ!   

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【オマケ:君が代の動画】

第82回選抜高校野球大会 国歌独唱 野々村彩乃


浅田真央 最も素晴らしい君が代 mao asada


竹内力 君が代


フォーミュラニッポン エンジン音で君が代演奏


しかし「君が代」って不思議ですね
聞くとゾクっとくる
誰が歌っても、また上記の動画のようにF1カーが歌って(?)も、
ゾクゾクきます

日本人としての血と魂が、そうさせるのかもしれませんね

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【 日本人の由来 】日本人の歴史は、シュメール文明よりも古く深い [日本の隠された歴史]

以下、「ねずきちの ひとりごと」blogから、
またもや勝手に(;・∀・)転載させていただきました
だってここのblog好きなんですもん・・・

日本人の歴史は、私達が教えられていたものなどより、
遥かに悠久の歴史があり、そして深い

自分自身、幸か不幸か先祖が1,000年近くまで何気にさかのぼれる家ですけど、
それらがあるからか、この「ねずきちの ひとりごと」blogで書かれている当該記事は、
すんなり心に入ってきます
日本人の独特の文化や思想は、自分達が思っている以上に
長く深いモノから育まれたものなんだろうなぁ~

少々長いですが、お時間のある時にでも、
ゆっくり読まれることをお薦めさせていただきます

なんか心にしみます
(´∀`)

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日本を守ろう
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1407.html


物事を巨視的に見るという見方が、ボクは大好きで、これはもう好き嫌いの問題としか言いようがない(笑)

たとえば明治維新は江戸日本という素晴らしく安定した社会体制を崩壊させてしまったけれど、もし身分制を第一とする江戸日本を引きずったならば、日本は世界の列強を前に自立を果たすことはできなかったであろうと思う。

大東亜戦争によって日本は国家を解体されてしまったけれど、もし日本が勝ち、日本が東亜の覇者となっていたならば、軍事力を第一とする世界の趨勢は向こう500年、1000年変らぬものとなったのではないかと思う。

長い目で見れば、人類が平和な社会を築くためには、西欧的覇権主義ではなく、もっと別なパラダイムが必要であろうし、そのための重要な役割を日本は一貫して背負って来ていると思うからです。

以下はある方に、Facebookでコメントをしたときに書いた文なのだけれど、大きな眼で見ると、以下のような流れがあるのではないかと、個人的には思っています。

現生人類が誕生したのがいまから15万年ほど前のことです。
誕生した場所はアフリカ中央部だったといわれています。
このことはミトコンドリアDNAの研究から、ミトコンドリア・イブの追跡で明らかになりました。

その人類は、いまから約5万年ほど前に、150人ほどの集団で中央アフリカを出発し、いまのサウジのあたりに移住したといわれています。
いまのサウジは荒涼とした砂漠ですが、当時はそこは緑の大地で、エディエンと呼ばれていた。
そうです。エデンの園です。

エデンで生活していた人類は、火を使いました。
使うのは主に女性たちだったのでしょう。
食事を作るのに火を使った。
火=赤=リンゴです。

けれど火は、森の木々を燃やします。
森は木の実と小動物、そして水を育みます。
けれど人が木を燃やすことにより、長い間に森は枯れ果て、砂漠化する。
森がなくなれば、小動物たちはいなくなり、木の実も採れなくなり、水もなくなる。
そこで新たな森を求めて再び移住が始まったようです。

エディエンの住民たちのうち、ある者たちは北へと向かい、ヨーロッパに住み着きます。
アングロサクソン族です。
一説によれば、そこはネアンデルタールのような猿人たちの生息地で、2メートルを超す体の大きな猿人族たちと、現世人類族は長い間テリトリー争いを続け、結局現世人類族がその地を確保した。
戦うことを至上課題とした西洋族は、武器を持ち、体も戦うことに便利なように肺が大きくなり、胸が厚くなり、筋肉が進化した。

一方、争いを好まなかった者たちは、猿人族のいない東へと長い旅を続けます。
そして水のきれいなバイカル湖のほとりに住み着いた。
モンゴロイド族です。

モンゴロイド族は、武器を持って戦うことよりも、自然と調和し、自然とともに生きる道を選んだ。
ところがいまから3万年ほど前、地球気温が急速に寒冷化します。
このことも、地球気温の変化の記録から明らかになっている。

おかげでバイカル湖のあたりはものすごく寒い地となってしまいます。
この寒さでは、食料がない。
やむなく、モンゴロイド種たちは、四方に分散します。

当時の地球気温は、地質学の進歩で、年間平均で7度近くも下がったことがわかっています。
このため南極、北極の氷が増え海面がいまから140メートルも下がった。

このためユーラシア大陸と北米大陸は陸続きとなり、ある者たちはそのまま北米に住み着き、アメリカインデアンとなり、もっと南下して南米まで至った者たちは、インディオとなりインカ文明を築きます。

一方、ユーラシア大陸で太平洋を南下した者たちは、樺太、北海道、本州、四国、九州が陸続きだったことから、日本に住み着いた。
そして日本人の祖先となります。
これがいまから3万年前のことです。

ちなみにモンゴロイド族には、共通の特徴があります。
それは戦いを好まないという特徴です。
要するに戦うことよりも、助け合い、労働して食物を得ることに価値観を見いだす種族だった。
なぜならモンゴロイド族の古代遺跡からは武器が出土していないからです。

日本に住み着いたモンゴロイドは、はじめ穴居生活を営みますが、いまから1万6500年ほど前には、土器を造っています(大平山元1遺跡)。
これは世界最古の土器です。

土器があるということは、集落を営み、そこで社会的分業が行われ、言語を持っていたという証拠です。
そしていまから1万2600年前には、漆や栗の木の栽培をし、8000年前には、漆製の女性用の美しいかんざしや、現代でも立派に通用する美しい装飾の施された布製の美しい衣装などを着た生活を営んでいます。
そしてこの頃の日本では、稲作の水耕栽培が開始されていることも、遺跡によって明らかになっています。

ひとくちに1万年前といいますが、エジプトのピラミッド文明や、メソポタミヤ、チグリスフーフラテス、黄河文明など、世界の四大文明と呼ばれている地域の文明は、いまから5000年ほど前のものです。
世界最古の文明と言われるシュメール文明にしても、いまから6~7000年前のものでしかありません。

ということは、日本の1万6500年前の土器や、1万2600年前の漆、あるいは8000年前の灌漑農業などが、いかに古いものかがわかろうというものです。
それだけ日本には、古い歴史がある、ということです。

日本人は遠慮深くて、この時代、つまりいまから1万8000年前から、3000年前までの長い時代を「縄文時代」と呼んでいるけれど、ボクは、日本文明の始期として、この時代を「縄文文明」と呼ぶべきだと思う。

さてその縄文時代の中期のことです。
いまから7300年前、大事件が起こった。
アカホヤの大噴火です。
地学的に見て、日本最大にして最古の火山の大爆発となったこのアカホヤの大噴火は、土地を破壊し、生き残った人達は食料を確保するために沖合に漁業に出る遠洋漁業をもたらします。

その結果、日本の縄文人の一部が朝鮮半島に住み着き、そして北上して支那に住むモンゴロイドたちに灌漑農業を教え、長江文明をもたらしています。
長江文明も、武器を持たない文化であり、日本の縄文遺跡と同様、農業、高床式を営む文化です。

けれどいまから5000年ほど前のある日、黄河流域にコーカソイドが住み着きます。
西洋風の狩猟採取族です。
彼らは大型の動物を狩る。
当然、大型の武器を手にし、殺すこと、奪うことに長けています。

そのコーカソイド族が、ある日、長江流域にいるモンゴロイド族(長江族)を襲った。
方や武器を自在に使いこなす種族、方や武器を持たない種族です。
当然、武器を持つ方が強い。
コーカソイド族は、長江族から食物を奪い、女を殺し、あるいはさらい、強姦した。

やむをえずモンゴロイドの長江族たちも立ち上がります。
そしてその後、長い間、黄河族と長江族たちの間で、長く凄惨な殺しあいが起こります。
その戦いは、その後2000年も続いた。

やがて長江族は政治的軍事的に完膚なきまでに滅ぼされます。
ところが、食べ物を生産するものたちと奪う者では、生産するものたちの方が人口が多い。
両者は、外見上の特徴はモンゴロイドとなり、体内にコーカソイドのDNAを持つ支那人が誕生します。
そしてこの民族の言語は、語順がS+V+Cで、ヨーロッパ語族と同じとなっています。

一方、黄河人と長江人の相克の中で、平和を求めて支那周辺の辺境の地へ逃れたモンゴロイド達もいます。
これら諸少数民族たちは、不思議なことに日本人とDNAがそっくりです。着衣のデザインも縄文人達と同じ。そして語順がS+C+Vの順の日本語と同じ構造です。

遺跡の発掘調査や年代測定の結果は、以上のような経緯を明らかに証明しているのですが、日本の考古学会は、こうした流れを現時点では、一切認めようとしていません。
あくまで日本文明は支那から渡来したものという説を強引に取り続けています。

まあ、以上のお話は、ねずきちの初夢くらいに思っていただいても結構です。
けれど、以上のような歴史の流れは、様々な遺跡調査や、人骨や、籾のDNA解析で、明らかになってきている。

だからボクは、おそらく巨視的にみたときの人類史というのは、以上のような流れであったのだろうと思っています。

つまり・・・ここからが大事なのですが・・・日本は、世界最古の文明を持つ、最古の国家である、ということなのです。
そして日本人の持つ和の精神、殺したり戦ったりすることよりも働くこと、愛すること、思いやることを大切にする日本精神の源流は、いまから何万年も前の縄文期から、脈々と続く血脈の上にあるものだと思うのです。

いま、日本は建国以来の亡国の危機にあると言われています。
古事記誕生1300年、壬辰の年である今年、何が何でもこの日本を守り抜きたい。
ボクはそう思います。

参考「世界に誇る縄文文化」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-802.html
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【拡散希望】日本は負けていない!【転載】 [日本の隠された歴史]

拡散希望ということで、
私のblogでも転載させていただきます

以下、「ねずきちのひとりごと」blogより
http://nezu621.blog7.fc2.com/

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【拡散希望】日本は負けていない!
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1373.html

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アパグループの懸賞論文といえば、以前、田母神さんが最優秀賞を受賞し、これがために問題にされた件で覚えておいでの方も多いかと思います。

今年も「真の近現代史観懸賞論文」の第4回懸賞論文があったのですが、その中で、中松義郎博士の論文が非常に興味深いものだったので、ご紹介します。

中松義郎博士といえば、あの有名なドクター中松氏です。
いろいろな意味で、これまでの常識が覆される内容を持っています。

まずは、ご一読ください。
素晴らしい内容です。
おそらくこれを読まれた方は、これまでの歴史認識が一変するのではないかと思います。

============
アパグループの懸賞論文優秀賞(社会人部門)
題名【日本は負けていない】
  ~超経験者しか知らない真実~
著者 中松義郎博士
http://www.apa.co.jp/book_ronbun/vol4/yushu2011japan.html

昭和20年8月15日正午、その日は天文台によると33度で特に暑かった。

突然「第二種軍装(夏用麻製仕立)の正装にて至急整列すべし」との館内モールス信号で校庭に集合し、直立不動で汗を流しながら待つ我々帝国海軍機関学校最後の海機58期生(昭和20年に海軍兵学校と合併)は、最後の帝国海軍将校生徒として整列し、ラジオから流れる玉音放送を聞いた。

海軍機関学校の入学試験の体格検査で75センチだった胸囲が、入校後の猛訓練と猛鍛錬で僅か3ケ月で104センチになった巨大な胸が歴史上初めての玉音放送に大きく高鳴った。

しかしラジオの雑音が多く、よく聞き取れない。
「本土決戦が近いので頑張るようにとの天皇陛下御自らの激励のお言葉」と全員が受け取った。

当時の日本人は全国民が「歴史上敗れたことがない神国日本は最後には必ず勝つ」と信じており、全国民誰一人として日本が負けるなどと考える者はいなかった。特に軍は全軍士気旺盛だった。

現に私のいた舞鶴軍港は二十四時間軍艦を造るリベット音が絶えず、食糧、武器、弾薬が豊富で、いつでも敵を迎え撃つ準備が連日連夜進められていた。

原爆研究については陸軍が東京帝大の仁科博士と理研に開発を依頼した「二号研究」(海軍は京都帝大と「F研究」)として行い、濃縮ウランは海軍が潜水艦でドイツから運ぶ手配がされ、出来た原爆の第一弾をハワイに落とす作戦を杉山参謀総長は陛下に上奏したが、
陛下は「原爆という非道なものは使うべきでない。 特にハワ イには日本人が多いので却下する。」となり杉山参謀総長は解任され、東條首相が参謀総長を兼務することになった経過がある。

この様に非人道的爆弾と陛下が認識されていたものを日本に落とされたのだから、陛下の衝撃は大きく終戦する一つのきっかけになったと思われる。

しかし杉山参謀総長は、原爆開発を継続したのだ。
軍人は戦争に勝つために打てる手を全て打とうとする。

しかしそれは陛下の御意向に反しているので、原爆を造って勝っても、原爆を造らずに敵に原爆を使われて負けても、いずれの場合にも杉山参謀総長の責任なので切腹すると誓い終戦直後に切腹した。
元来日本は武士道を基に戦争を行ってきたのである。

陛下は米の原爆に対し非道だと禁じた原爆で応じたのなら「人類の文明が滅亡する」と終戦を御聖断された。

米が原爆を落とせば日本もこれに応じて米に原爆を落とす。
このことによって日米の多数の人が死に、この原爆戦争が世界に及び世界中の人が死ぬ。

これを防ぐために米が日本に原爆を落とした時点で終戦にされたのであって、日本が原爆を落とされたから、または負けたので終戦にしたのではない。
日本は負けていないのに終戦したのである。

これを文章にしたのが終戦の詔勅、
~~~~~~~
敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ
頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所
眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ
尚 交戦ヲ継続セムカ
終二我力民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス
延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ
朕何ヲ以テカ 億兆ノ赤子ヲ保シ
皇祖皇宗ノ神霊二謝セムヤ
~~~~~~~
であって、終戦の理由は負けたからではない、という意味である事を読み取ってほしい。

翌日の八月十六日には、帝国海軍航空隊による米本土突撃大作戦が予定されており、その猛訓練が行われていたことを陛下はご存知なかっただろう。

この作戦が実行されていればドゥーリトルの東京空襲によりミッドウエイ海戦の日が繰り上がったのと同じに米軍は、十月予定の本土決戦を急濾九月に繰り上げた結果、天候の条件も加わり日本が勝利する展開になったのではないか。

いつどこに敵が上陸するか、日本陸軍参謀本部と海軍軍令部の想定は、時期は九月又は十月、上陸地点は九州南部(「陸軍作戦名「決号・第6号」海軍作戦名「天号」。さらに翌年関東の九十九里浜に上陸)。

この日本軍側推定は米軍上陸作戦計画(米軍名「オリンピック作戦」(九州)「コロネット作戦」(関東)の「ダウンフォール作戦」)とピッタリ一致して日本は見事米軍の動きを見透していた。

陛下は侍従武官を九十九里浜に遣わして防衛体制を調べさせたが、侍従が「防衛は全くされていません。」との報告をお聞きになったことが終戦を決断された一因と伝えられる。

この時九十九里浜で訓練していた三千人の「伏龍」隊は、シールドにかくれていて侍従武官に見えなかっただろうし、又、米軍は九州を先に攻めると想定されたので、日本軍の陣立は九州南部を先に固め、そのあと九十九里を固めようとしたのであるので、陛下に上奏された終戦を決定する情報の一部に重大な誤りがあったのは残念だ。

これは開戦時の宣戦布告をワシントン大使館の怠慢により米国務長官への提出が遅れ、日本の騙し討ちという口実を与えてしまったことと同じ位に大きなミスだ。

本土決戦の火蓋がきって落とされた後をシュミレーションする。

先ず米軍は上陸地点の南九州に原爆を落とすだろう。
しかし陸軍参謀本部堀少佐率いる特殊情報部が原爆コールサインを五時間前に傍受していたので、近くの海軍大村基地の紫電改が発進し、B29を太平洋上で撃墜。

ついで艦砲射撃するため日本に近づいた米軍の日本本土上陸作戦に対する日本軍の準備は、完成した三千機の特攻専用機「劍」が、上陸しようと集まった敵艦艇に突っ込み、多くの敵艦を撃沈撃破し、水中からは千隻の特殊潜航艦「蛟竜」(海軍兵学校校歌「江田島健児の歌」の「地に潜む「蛟竜」からとった名」から泡の航跡が全く残らない日本海軍の世界に先駆けた発明九三式酸素魚雷が発射されて、敵艦艇は次々に轟沈する。

この猛攻撃からしぶとく残った敵艦に対し、岩陰に隠れていた海軍兵学校六十九期満野功大尉率いる第六十七震洋隊江ノ浦(静岡三津浜)など三千隻の「震洋」爆突特攻艇が轟々と暁に発進し、残る敵艦や上陸用舟艇に勇猛果敢に体当たり。それでも残る敵艦艇からかろうじて発進した敵の上陸用舟艇に対しては波打ち際の水中に展開する五式撃雷を待って潜む予科練出身者や海軍陸戦隊古兵の精鋭から成る三千人の「伏龍」隊が上陸用舟艇を爆沈させて波打際に寄付けないようにする。

それでもかろうじて上陸した敵兵を、五重の陣地で固めた世界最強の本土決戦部隊が米戦車より強力な新開発五式重戦車と共に待ち構える。

敵戦車に対しては最新鋭の「ロタ砲」で、敵戦車M2を遠方から撃破し、更に敵が近づくと「櫻弾」で厚い装甲を撃ち破り、もっと近づくと決死隊がチビ(ガラス球に人った青酸がス)を戦車のスリット窓にぶつけて操縦者の目潰しをし、次にキャタピラ破壊扁平爆弾を敵戦車のキャタピラの下に挿入してキャタピラを破壊し、敵戦車を動けなくし、止まった戦車本体の下に戦車爆雷を挺身突撃隊が放り込んで擱座させる。

一方、上空の敵機には大東亜戦争決戦機として開発された世界最強(戦後アメリカの実験で時速最大六九〇kmを記録し最高傑作機と評価された。)の中島飛行機製二千馬力四式戦闘機「疾風」や、ゼロ戦の次世代戦闘機堀越二郎設計の三菱製「烈風」が敵グラマンF6F、ノースアメリカンP51を次々と撃ち落す。

更にB29キラーとして海軍空技廠設計九州飛行機先尾翼型機首と強力三十ミリ機関砲四門搭載の「震電」が時速七百粁以上という、米軍戦闘機、B29より早い世界最速スピードで敵戦闘機に追い付き、敵機を一撃で撃墜する。

又、B29の前方上空に廻り込んで四門の砲でアッという間にB29を撃墜する。

種子島海軍大佐が開発し石川島重工業製の世界初のジェットエンジン搭載の双発ジェット戦闘機「橘花」がB29を攻撃。

甲液「過酸化水素オキシノリン・ピオリン酸ソーダ」と乙液「水化ヒドラジン・メタノール・銅シアン化カリウム」を一〇〇対三六でミックスした脅威の推進力で、今迄達しなかった一万二千粁の成層圏まで従来型の飛行機では十数分かかったのを僅か三分五十秒で急上昇できる時速九百粁の画期的無尾翼型ロケット戦闘機「秋水」がその先頭部に搭載する強力三〇ミリ機関砲二門が火を吹きボーイングB29を一撃で次々と撃ち落すとして行く。
運よく残ったB29も新開発の二万米に達する新高高度高射砲で撃墜されて行く。

だがこれら最新戦闘機を動かす燃料はどうするのか?

そもそも大東亜戦争が始まったきっかけは軍艦や航空機に必要な石油を米英蘭三国が対日輸出禁止して日本経済を窒息させようとし、これに対してワシントンに交渉を行った甲案提示の野村海軍大将(大使)と東郷外相の秘策乙案を持った来栖大使が追いかけて米側と交渉。
ほぼアメリカが合意し日米和平が実現しようとしたのに対し、その翌日引っくり返り「日本の全権益放棄とシナ大陸からの日本陸軍の全面撤退」を要求する蒋介石の言い分を通した文章を共産主義者でソ達のスパイであったアメリカ国務次官補が草稿を書き、ハル国務長官がそれに署名した「ハル・ノート」の回答に、これでは日本は到底合意できないので日本が大東亜戦争を始めたというのが第一の理由だ。

この戦争を始める理由になった燃料については、私の先輩で百歳の長寿を全うした帝国海軍機関学校第四十期生木山正義機関中佐と、又、私の先輩東京帝国大学工学部桑田勉教授の研究により、南方からの油を頼る事なしにパイン・ルート・オイルから終戦直前十年分の燃料を創り出したのだ。

これに加えて更に「太陽と水と大地」があれば永久に生産出来るバイオ燃料を創り出す事に成功した。
しかも空襲に耐えるため蒸留工場を全国に分散して建設し、製造した。

この蒸留装置製造を実現できたのは海軍艦政本部が木山中佐の依頼に全面的に協力し蒸留装置を急速に造り全国に設置したからである。
これで日本は永久に戦える燃料を終戦前に用意できたのである。

本土決戦では日本は必ず勝つとすべての陸海軍参謀は確信していた。
一方、アメリカ軍上陸攻撃隊司令官は戦後日本軍の陣立てを見て驚嘆し
「米軍は上陸に三回失敗しただろう。上陸に三回失敗すれば米軍の戦力はほとんど消耗し、戦争はベトナム戦と同様な状態となり、アメリカ国内で戦争反対の世論が起こりベトナム戦で米軍が負けたと同じく米軍は日本から敗退せざるを得ない。もはや戦えないので日本に和睦(降伏)を申し出るしかなかったであろう」と述べている。

ポツダム宣言を発した米国大統領トルーマンは、急死したルーズベルトから戦争を引き継いだとき、
「日本の国土は九十%が山森であり、攻めるのが非常に困難な地形である。しかも廻りは海で近づきにくい「不沈空母」である。地形のみならず無傷の七百五十万の世界最強(マッカーサーが議会で証言)の日本陸軍が本土と東南アジアに展開し、この敵とどう戦いどうやって打破する事が出来るか見当もつかない。」と溜息して日記に書いている。

実は日本を空襲したB29から「アメリカは鉄が不足して船をコンクリートで造りはじめたり、男のパイロットが不足して女が飛行機に乗ったりしてアメリカは青息吐息だ。日本人よ、もう少しでアメリカが参るから、ガンバレ」というビラが撒かれた。恐らく乗っていた日系二世が日本上空から撒いたと思われる。

一方、昭和二十年五月にベルリンに居た藤村義朗海軍中佐がスイスでルーズベルトの代理人キャノンと交渉し、米側は「満州、朝鮮、樺太、千島列島(北方領土)は日本に残す。
台湾は蒋介石と交渉してくれ。この条件で停戦しないか。和睦は急いでやりたい。」と驚くべき提案をして来たが海軍軍令部はこれを受けなかったと藤村中佐自身から私は聞いた。

これを継承したトルーマン大統領は、日本を降伏させるのは不可能で、どうにも打つ手が無く、手づまりだから「ポツダム宣言」というフェイントのような宣言を出した。
これは又、原爆投下をする言い逃れにもしたのである。

なぜフェイントのようかというと戦後、米、英、支のポツダム宣言の書類の実物を見ると、トルーマンしか署名していない事が判った。
イギリスもシナも署名していなかった。

これから見るとトルーマンの一人芝居だったことが史実として判明した。

そしてドイツ攻撃用に急いで実験的に作ったファットマンとリトルボーイの一つづつの二つしかない原爆を投下し、同時に数百個の原爆があるとウソの宣伝をして日本をおどした。

このフェイントのようなものに、まんまとお人よしの日本政府は引っ掛かってそのままのんでしまった。
これにはろくな返事も来ないだろうと思っていたトルーマン大統領自身もビックリした事だろう。

陸軍参謀総長、海軍軍令部総長という戦う陸海軍の責任者は前述のように本土決戦は勝つ見込みが充分あるから、天皇陛下の御前会議でもポツダム宣言受諾に絶対反対し戦争継続を主張したのであるが、天皇陛下が終戦の御聖断を下されたのである。

この会議室の入口で、特攻の海軍現場責任者の海軍軍令部次長の大西滝治郎中将が「あと特攻機が千機あれば勝てます(実際は既に三千機が用意されていた)。」と意見具申したが拒否されたので、大西中将はこれに抗議して切腹した。
切腹の介錯も頼まなかったのは怒りの表現であろう。

一方本土決戦の帝都の空の護りとして厚木にある無傷の帝国海軍航空本土防衛隊は、零戦設計者堀越二郎の新設計の四翼プロペラ延長回転軸式新型迎撃戦闘機「雷電」や川西航空機製「空戦フラップ」付の新鋭機「紫電改」などの一万機が厚木航空隊に温存され、強くて米軍から恐れられたラバウル海軍航空隊などから集められた歴戦のベテランパイロットが手ぐすねを引いて待っており、厚木海軍航空隊小園司令は終戦命令に絶対反対で最後まで降伏しなかった。

右の如く終戦時には「日本は負けていなかった」のは歴史的事実である。

そして「終戦」の実態は「負ける」どころか「血気にはやり、戦いたい」陸海軍や士気旺盛の国民に終戦を説得し抑えるのが大変だったというのが歴史的事実である。

しかしポツダム宣言に対して日本政府は「これは敵から申し出た和睦の条約」とまじめに甘く考えていてこれに乗ってしまったのである。

アメリカの新聞は大喜びで「日本は無条件降伏」と事実とちがう報道を行った。

アメリカの提示したポツダム宣言自体、八つの条件付であり、これに加えて日本政府は「国体護持」という条件付きで受諾したので、計九つの条件付和睦で「無条件降伏」は事実に反するのである。

又、ポツダム宣言にも日本の国としての無条件降伏とは一字も書いていない。
戦後の日本人が洗脳されて「敗戦」だとか「日本が無条件降伏した」と思っているのはまことに嘆かわしい。

さて日本は歴史上負けたことがなく、前例が無いので終戦のやり方が非常にまずかった。
通常どんな契約でも必ずネゴをして味方の条件を良くするものだ。

現に藤村中佐のスイス交渉では、ルーズベルト大統領が「満州、朝鮮、樺太、千島列島は日本に残す。台湾は蒋介石と交渉してくれ。」と言っているのだから、この線に戻すことは可能性大だったのだ。

だが今も昔も変わらぬ外国との交渉下手の日本政府はネゴをしなかった。
ところが和睦の条件の武装解除をして日本に武力を無くすると、アメリカは次のステップとして、日本の陸海軍を廃止させた。
これはポツダム宣言に入っていない。
更にアメリカはハーグ国際条約に反してアメリカ原案の憲法を日本政府に呑ませ、日本の政治家は一人として抵抗する「男」がいなかった。これは今日迄統いている。

又、進駐の翌朝から進駐軍は軍政を敷き、B円という占領軍貨幣を使わせ、日本経済をコントロールしようとしたが重光外務大臣と側近の岡崎氏の命を懸けた交渉でこれだけは阻止した。
軍政と通貨は、ポツダム和睦条件に入っていないのだ。

あたかも徳川家康が大阪冬の陣の和睦条件に外堀を埋めることとし人のよい豊臣方が呑んだら、内堀も埋められて、次に難癖をつけられ夏の陣で滅ぼされてしまったのと同じ手法だ。

先に述べたようにアメリカは国際法で禁じられている行為、占領軍による憲法制定を強引に日本政府に呑ませ、占頷下で手も足も出ない日本政府は屈服した。
軍人は切腹したのに政治家はこの不法行為に抵抗する「男」が誰もいなかった。

一方、ソ進は日本との不可侵条約が厳として存在しているのに、日本が終戦の仲介を依頼しているのを知りながらノラリクラリとこれを無視し続け、日本に宣戦布告をした。

樺太や千島列島の日本軍は上陸するソ進軍を撃退し、又、関東軍と朝鮮軍は旺盛な士気で朝鮮半島北部でソ連軍を待ち構えていた。

しかしソ進軍は、終戦後不法に北方領土を占領したのみならず支那大陸にいた六十万人もの純心な日本兵を「帰国させる」と偽って貨車に乗せ、シベリアに拉致し、重労働させた上、洗脳されないものは帰国させないと脅して共産主義教育を叩き込み、共産主義に洗脳された兵のみ帰国させ日本の教育界、マスコミ界、労働組合、演劇界にもぐり込ませた。

そしてGHQと共に日本を左傾させ、学生も勉学そっちのけで革マル、中核、赤軍派など学生運動を繰り広げてこの学生が今や成人して政治家となり偏向した現政府の幹部となって日本を動かしている。
そして産業も沈滞し道徳は乱れ、これらは現在日本が弱体化している基本的要素となった。

この「終戦」の実情、つまり「戦意旺盛の陸海軍や頑張っている全国民をいかに説得してやめさせるか」が終戦にするには大変な事で、「敗戦」どころの状態ではないのである。

この実態を知らない最近の日本人は「終戦」を「敗戦」と言い変えているのは史実に反する。
右に事実を説明したように実際に負けていない「終戦」と、負けたという「敗戦」は全く違うのだ。

昭和一桁初期以降に生まれた若い人は右に述べた本当の歴史を知らない。
だから日本政府の正式名称であり理論的に正しい「大東亜戦争」(太平洋だけでなく、ビルマ・インド等も含めた戦争)を米軍の言う「太平洋戦争」に言い換えたり、日本政府の正式名称「支那事変」を「日中戦争」と言い換えたり、国際間の正式国名の「チャイナ」又は「シナ」と言わず相手におもねって、又はお世辞で「中国(世界の中心の国)」と言っている。

「支那事変」は日本政府が正式に国家間での戦争と認めていないのだから、日本政府は「事変」と言っているのであり、この事実に反しているのを知らないで「戦争」というのは理論的にも誤っている。
又、「わが国」と言わず、他人の国のように「この国」と言っている人も洗脳されている人である。

占領軍は日本占領中新聞や手紙の検閲を行って「大東亜戦争」の使用を禁止し「太平洋戦争」を公文書に使うよう強制したが日本は独立している今もって間違った表現の「太平洋戦争」という名前を使って占領軍のトラウマに囚われているのだ。

さて終戦の詔勅の文章を協議する会議で詔勅原案の中に「戦勢日に非にして」という文章があり、某大臣から「日本は勝ったのか負けたのか?」と質問が出たのに対し阿南陸軍大臣は「勝ち負けの定義を「日本が支配している地域の大きさと兵の士気」とすれば、日本が戦争を始めたときの面積と現在(終戦時)の面積を比較すれば、現在(終戦時)の面積の方が大きい。
つまり日本はこの戦争で勝っていることになる。
しかも兵の士気は旺盛で日本は最後には必ず勝つと信じている。」と答え、詔勅原案「戦局日に非にして」は「戦局必ずしも好転せず」と訂正された。

阿南大将は「本土決戦をやれば日本は負けないので、本土決戦のあと講和を結ぶ」との陸軍の主張が聞き入れられず、御前会議で終戦が決定されたので、いさぎよく切腹した。
これは計画されていた大掛かりな陸軍のクーデターも抑える効果もあった。
介錯も断った見事な切腹だった。

この様な信念と責任感旺盛で主張が通らなければ、最後には自分の命を堂々と切腹して絶つという大臣は現在の日本の大臣に誰一人いないのは、日本人が終戦後いかに堕落してしまったかを示すものである。


右のように終戦時は日本軍に停戦を説得するのが大変で、まして敗戦ではないのが事実だ。
終戦の詔勅について私の小学校も大学も同じ迫水久常書記官長(現在の官房長官)と私は公私ともに非常に親しく迫水さんから終戦の御前会議の模様など色々重要な話しを直接迫水さん本人から問いた。

御前会議でおっしやった天皇陛下のお言葉をラジオで全国民に伝える正式な勅語の文章作成を迫水さんが任され、迫水さんが一高で教わった漢文の先生である漢学者川田瑞穂に文章作成を依頼され原案を作成した。

これを大東亜省顧問の陽明学者安岡正篤が手を加え、とくにこの詔勅の原文の中に「義命の存する所」という言葉が重要であった。

全大臣が終戦の詔勅の文章を協議する会議が十一日夜から十三日夜迄続き、訂正箇所が四十ケ所もあり、特に重要だった「義命」という言葉が某大臣から「辞書にないから「時運」にしよう」と提案があって書き直されてしまった。そして「義命の存する所」が「時運の赴く所」に変更され正式の終戦の詔勅になった。

私の名前は「義郎」だが、この「義」という意味は「道徳に基づく人として行うべき正しいこと」の意味で「義命」とは「信以て義を行い、義以て命を成す」意味であり 『「義命」の存する所』とは普通にいわれる大義名分よりもっと厳粛な意味を持っている。

国の命運は義によって造られて行かなければならない。
その義は列国との交誼においてもその治政においても信でなければならない。

その道義の至上命令に示す所によって終戦を選ぶのであり敗戦ではないという意味である。

簡単に言えば『日本はこれからは道徳に基づく正しい方向を行くべきだ』との意味であるが『「時運」の赴く所』は「時の流れのままに」という意味で、全く違う意味になってしまった。

だから今日でも日本は「時運の赴く所」つまり世に流されフラフラ流されてリーダーシップがなく国是も定まらない誇りのない国になってしまった。」と迫水さんが私に嘆いた。


又、終戦の御前会議で東郷外務大臣が陸軍が主張したソ連を仲介者にするという案に猛反対し、仲介者を入れるなら「蒋介石を仲介にしたらどうか」と提案があったが、近衛文麿が「蒋介石を相手にせず」という声明を出し「汪兆銘による南京政府」が日本によりつくられているので「蒋介石仲介はまずい」と横槍が入り、それではと不可侵条約を結んでいるソ連を仲介者にした。

結果はご存知の通り最悪で、ソ連は不可侵条約を結んでいる日本にかくれてヤルタで米英支と日本をやっつける会談(ヤルタ会談)にこっそり参加し、日本からの情報はソ連を通じ連合軍に筒抜けになっていた。

毛沢東の中共軍と戦っている蒋介石は、中共に勝つため日本に助けてもらいたいので日本に非常に有利な条件で仲介しようと考えていた。

戦後蒋介石は「なぜ自分に相談しなかったのか。自分に相談したならもっとよい条件で日本が終戦出来たのに」とくやしがったという。

先般あるテレビ番組で「中国戦線で敗走する日本兵」というコメントと映像が出た。
私の記憶では支那事変で日本が負けた戦線は知らない。

そこでその担当者を呼び「どこの戦線で日本が負けたのか」と質問したが、返事がなくごまかすので再度追求すると、結局「根拠がありませんでした」と白状し「おわび」が回答だった。

国の権威に関わる事実無根な「日本軍の敗走」を国民に誤報して、これを放送で訂正せず口頭の回答で「おわび」でお終いにしている無責任さ。
歴史を知らないのである。

元大蔵大臣の塩じいこと塩川さんも支那大陸に従軍し「支那戦線で武器を持っていなくても日本軍の軍服を着ているだけで支那兵は逃げた」と体験談を話している。


ところで私は最後の海軍将校生徒であり、又、最後の東京帝国大学生でもある。
戦時中の東大総長は世界に誇る一万トン重巡の設計者平賀造船中将だったし、東京都知事は陸軍教育総監の西尾寿造大将(その長男は現在ドクター中松創研の取締役営業部長)だったが、終戦時も日本のエリートは追放され、
戦後の東大は、左翼の南原総長になり、
占領軍によって、
「ゼロ戦」を作った東大航空工学科、世界一の戦艦「大和」を作った東大造船学科、
戦後の米軍テストで米最新型グラマン戦闘機より命中精度が高かった事が証明されたゼロ戦の機関砲を追った西村教授の東大造兵学科など、
日本を強く支えた研究の学科が強制的に廃止されただけではなく、東京帝国大学正門にあった「菊の御紋章」がはぎ取られ、名前も「東京大学」となり、「東京帝大」が「東大」になった。

名前だけではなくこの新制東京大学の学力レベルは、旧制東京帝国大学よりも四年以上下に学力レベルを下げてカリキュラムが組まれた。

麻布時代の成績が下の方の私の友人でも実際新制東京大学に人っている。
私達東京帝国大学学生十人に対して二十人の教授陣が取囲んで最高レベルの教育をし、最高の実験装置を持つ東京帝国大学は世界のトップレベルだったが、新制東京大学の世界ランキングは今年は世界二十四位までに落ちている惨状だ。
又、東大の学生自治会は完全に左だった。
私は中立の丁友会理事として学生の健全化に努めた。

日本は軍隊の強さも世界一(マッカーサーが議会で証言)だったが、戦後経済でもスイス、イギリス、ドイツを抜きGDPはアメリカに次ぐ二位となり、次にアメリカも抜く勢いで、アメリカでは日本を恐れて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本も出たくらいだ。

そして一九九三年には日本人の個人所得はアメリカ人を抜き世界一になった。
戦争にもビジネスにも強かったのは当事の日本人が青年時代に兵隊に行き、気力も体力も鍛えられ、又、まじめに高度な勉強をした昭和一桁初期の日本人(これを私は「超経験者」と言っている)による努力の結晶なのだ。

しかし占領軍による日本弱体化政策により戦後育ちは勉強も怠り、徴兵にも行かず、体力も気力も鍛錬されていないので、体力的にも気力的にも弱く知識経験も少なく、国際競争に勝てない。最近の日本の男はすぐ泣く。
山一證券倒産の時に社長が泣いたのはその象徴だ。

最近の若い男は草食系と言われ、やる気がなく泣き虫で、私が教えているハーバード大学やMITに日本人留学生がいない。
最近の日本人は留学するファイトもないのだ。
シナや韓国人が多数外国一流大学に留学しているというのに。

そして日本のGDPも二位から三位に後退し、日本人の個人所得もかつての世界一から現在二十七位に落ち込んでいる。
日本はこの状況から脱却せねばならぬ。

それには「超経験者」を指導者にして次世代若者を十五歳から全寮制で肉体と気力を鍛え、道徳修身を勉強させ更に世界より高いレベルの教育をしてゆく事が日本再生の基本なのである。

戦争中、私の家の玄関ドアに鍵をかけなくても泥棒が人らなかった。
しかし終戦後、同じ私の家で厳重な鍵をかけても何回も泥棒に入られたことでも判るように戦時中立派だった道徳心が高い日本人に比べ、修身を廃止した戦後の日本人の道徳の疲弊は驚くべきものがある


もう一度言う。
「日本は負けていなかった」

これを裏付ける賀川豊彦のマッカーサーヘの終戦直後の手紙の一部を添付する。

『マッカーサー総司令官閣下』
陛下の詔書の一分前まで全国民の戦意は燃えに燃え陸海空三軍の銃口が一様に貴官各位の胸に向けられていた事も事実なのです。
総司令官閣下
貴官は去る28日の厚木進駐の指揮者から進駐が平和的に日本側の満足すべき心づかいの中に先遣部隊の進駐を終了した報告を受けられたでしょう。

そして閣下は多数の日本人を眼前にされたでありましょう。
そしてまたその日本人が口をキッと結んでいる表情に気がつかれたことと思います。

日本人は最後まで戦うつもりでいました。
おそるべき原子爆弾がやがてわが身に落下するということを予想し覚悟しなかった者は只一人もありますまい。

またたとえ身は焼かれても粉砕されても戦争は陛下の指揮のあるまで続けてゆかなければならぬことを毛程も疑った日本人は一人もなかった事も事実ですが、それが、陛下の詔書によって戦争から平和へ完全に変向しました。

その決意の固さと新しい理想へ出発への努力が閣下の見られる日本人のキッと結ばれた口もとの表情なのです。
この様な民族が、国家が他に例を見ることができたでしょうか。』


最後に日本全国民が、もう一度「終戦の詔勅」を読むことを提案する。

そして負けていないのに終戦した無念さを思い起こし、そこに書かれている陛下が示されたこれからの日本の指針「総力を将来の建設に傾ける事」「正しい道を進みその心を堅持」「国体の真髄を発揚」「世界の流れに遅れを取らぬよう」を全国民が実行することが、我が国を立派だった古き良き日本に甦らせることなのである。

繰り返すが今迄「敗戦した」と殆どの人が思っている事は間違いであり、史実は「日本は負けていなかったのだ」という事を再認識し、これからの各人の行動を百八十度転換する事が日本再生の第一歩であることを確信し、日本が立ち直る起爆剤にするために本論文を発表したのである。

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いかがでしたか?

最近、8月15日を「終戦」と呼ばず、「敗戦」という語句を使う人が増えています。
とんでもない話です。
あくまでも日本が主体的に戦闘を終わらせたのです。
だから「終戦」なのです。

本土空襲を繰り返した米軍のB-29は、高度1万メートルという、日本の戦闘機では届かない高高度を飛ぶ爆撃機でした。
当時にあっては、まさに世界最強の「空の要塞」です。

けれど、その高度的に届かない筈の高さを飛ぶB-29を、陸軍の上坊良太郎大尉は、(高度が届かない筈の)戦闘機で12機も撃墜してしまっています。

さらに高高度を飛ぶことのできる飛行機を日本が完成させていたら。
戦況はまるで逆転です。

ちなみに、あれほどの脅威を誇ったB-29を、戦後米軍は、あっという間に廃棄処分しています。
役に立たなくなったからです。
なぜかといえば、ジェット戦闘機が開発された。
ジェット戦闘機の前に、B-29は、まるで空に浮かぶ間抜けな「的」できなくなってしまったからです。
そしてそのジェット戦闘機を、日本は戦時中、すでに開発していた。

そして一番大切なことは、原爆を落とされた日本が、実は原爆を持っていた、ということです。
その日本が、報復のため米国にもし原爆を投下したら。
それは、十分にあり得ることです。
それだけの技術が日本にはあったし、当時日本は戦争をしていたのです。
軍は、「勝つため」に戦争している。

けれど原爆の打ち合いが、まさに人類を崩壊させるものとなるということも、容易に想像できることです。
そして陛下の終戦の詔勅は、本文は原文のままでしたが、口語訳すれば

~~~~~~~~~
敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。
この上、なお交戦を続けるであろうか。
ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。
そのようになったならば、朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。
~~~~~~~~~

この一文に込められたメッセージは、たいへん重要です。

「この上、なお交戦を続けるであろうか」
という一文には、原爆に対する報復措置としての米国への日本の原爆投下をする、というメッセージが込められている。

そうなれば、戦いには勝つかもしれないが、「朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。」と陛下は述べられているのです。

国家間の戦争に勝つということは、どういうことか。
世界的名著である、クラウヴィッツの「戦争論」によれば、戦争とは、「国家の目的を達成するための究極の手段である」と述べられています。

日本が大東亜戦争で目的としたものは、「世界の平和と繁栄」です。
日本は、良心のために戦った。
だからこそハーグ陸戦条約を堅持し、日本は、一般市民に対する虐殺行為を一切やらずに戦い抜いたのです。

その日本が、一般市民を巻き込む原爆投下を行ったらどうなるか。
なるほど日本は戦いには勝つかもしれない。
けれど、陛下は、虐殺を行ったという事実を、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊に、如何にして謝れば良いのか、と述べられているのです。

そして日本は、主体的に戦いを終わらせたけれど、その日本が巻いた種によって、戦後、世界の被植民地諸国は、次々と独立を果たし、経済的繁栄を遂げるようになってきた。

考えてみると、それら諸国の国民は、すくなくとも戦前までの支配者側だった白人たちよりも、いまでははるかに良い暮らしをしています。
ちょうど、戦前なら、よほどの大金持ちか大臣でしか乗れなかった自動車に、いまでは主婦や働く人たちが、当時の車よりもはるかに安全性、居住性の良い車に乗っているのと同じように、です。

国家の行う戦争は、戦闘行為自体が目的ではありません。
目的のために戦争をするのです。
そしてその「目的を達成」した国家が、戦争に「勝利した」ことになる。

日本は、間違いなく、戦争に勝利したのです。

参考:終戦の詔勅
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-569.html

終戦の詔勅 (玉音放送) ~完全版~
http://www.youtube.com/watch?v=1XMja7jwtV4&feature=player_embedded
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