最近ではブログを更新しなくなって久しいですが、その分noteで趣味のお話を仕事の合間に執筆し、ひとり楽しんでおります。
このお話は、前々からこのblogでも何度かご紹介させていただいた「大多喜無敵探検隊-since197X」というタイトルの、趣味の(自称)児童文学(?)。私と同年代の人には懐かしく、そして令和の子供たちには反面教師としてご覧になっていただけたら嬉しいなぁ~といった、一種のイラスト・エッセイです。
舞台となる房総半島は、ご存知の通り首都である東京の隣の千葉県ですが、令和の今でも半島の先に行けば行くほどむっちゃくちゃ田舎でして、それが今から4050年前の昭和の頃となったら本当にトンでもない僻地でありました。しかしある意味ワイルドでもあったのですが‥、
「大多喜無敵探検隊-since197X」は、そんな昭和の大多喜町で育った私の、あの頃の回顧録でもあります。
そして今回のお話は夏やすみの一日
昭和の小学生にとって夏休みは年に一回のボーナスステージ、朝から晩までフリーダムな「あの頃の夏やすみ」です。でも結局ボリュームが多くなり、去年のうちに執筆したものも含め最終的に「早朝編」「定例パトロール編」「川遊び編」と三部作になっちゃいました。。
また今回のお話は、夏に向けて多少なりとも観光的な部分も意識してみまして、他所では一般的ではない房総南部の川廻しという土木工事の図解や、フリー画像も多数使ってみました。
なにぶん半世紀も前の、昭和レトロ真っ只中のお話ですので、今の時代では通じない事柄も多く、イラストや写真、そして欄外の解説文での補足が必要になる代物で、創作自体が案外面倒くさいことこの上ないのですが、私自身があの当時を鮮明に思い返すことも出来、ある意味楽しい作業でもあります。
ちょうど10年ちょいほど前まで没頭したガンダムの精緻なジオラマ作りに通じるところがありますね。

以下、それぞれのお話の挿絵や写真などをまとめて公開してみました。

【早朝編】
オレの夏やすみ 虫捕りラジオ体操、死神博士の記憶
https://note.com/sanadado/n/nbc5c6202749c

昭和52年(1977年)の房総南部の田舎 大多喜町の、小学5年生の私の夏休み。その早朝からをある程度時系列を追ってお話にしてみました。


昭和の田舎の小学生の夏やすみの朝はヤケに早いのでした、大体5時起き。学校にいくときより早いのです。


夏休みの朝が早い理由、それはカブトムシやクワガタの採集があるからです。私は毎朝だいたい2か所をまわっていましたが、、大人になってつくづく思うのは、なんで子供の頃の私は、あんなに必死になって虫ケラを集めていたんだろうと‥。


私は大人からやれといわれるラジオ体操が大嫌いでしたが、出席しないと怒られるので出ていました。


お話の流れから行川アイランドでの仮面ライダー撮影に付随した仮面ライダーショーを思い出しまして、これはその際の写真です。


行川アイランドでの家族写真、これは私が小学生にあがる前のものです。


私はこの行川アイランドでの仮面ライダーのショーの合間に、なんと本物の死神博士と偶然出会い、お話をさせていただきました。その際の記憶はnoteの別記事に書きました。↓
【雑記】『正義の反対はもうひとつの正義だ。』幼い私は死神博士に教えてもらったのかもしれない
https://note.com/sanadado/n/nb5a3eaef740b


近所の子供たちが集まる青龍神社では、よくメンコをやっておりました。これはメンコの一例 私の時代は昔ながらの丸形は廃れ、代りに仮面ライダーやスーパーカーなどのミニカードがよく使われました。


【定例パトロール編】
オレの夏やすみ 大多喜の愛と平和を守るため

https://note.com/sanadado/n/n92eb455073f6

早朝編の続き。近所の子らで青龍神社にたむろって遊んでいたものの、やがてやることがなくなり、ほぼ毎日の日課となっている町のパトロール(?)に行くお話です。
お昼ごろまでの内容です。



暇になると私たちは、たむろっていた神社から田んぼのあぜ道をバイパスし、大多喜駅前のディスカウントスーパー「ポピンズ」に行きました。買いたいものは特に何もないのですが、真夏はいつでもエアコンが効いていて涼しいのです。その田んぼも今は埋め立てられて町営駐車場になってしまいました。


ディスカウントスーパー「ポピンズ」に飽きたら、次はスーパーストアーの「デンベー」です。ここではよく食玩を買いました。当時の私はデビューしたばかりのロッテのジョイントロボに夢中でした。ここもエアコンがよく効いており、私たちにとっては真夏のオアシスのひとつでした。


ジョイントロボのオマケの一例、絵で描きましたが今でも現物は幾つか手元にあります。


ポピンズ、デンベーの次は、2軒並んだ駄菓子屋「バクダン屋」と「加賀屋」に定例パトロール、花火類が豊富なバクダン屋で、私はいつも様々な火薬類を購入しました。この絵はカンシャク玉、その他にもバクチク、NAクラッカー(2Bクラッカーの後継)、煙幕花火などをよく買いました。


バクダン屋は花火以外にもくじ引き類が充実しており、そのくじ引きがこれまた当たらないことでも有名で、時々私の友だち達がブチキレておりました。この歌はそんなバクダン屋を影で皮肉った歌ですが、ツワモノの友人の一人は、あまりにあたらずブチきれて、こともあろうにお店の主人たちの前で歌い上げるという暴挙に出ました。神をも恐れぬ、全く怖いやつです。


バクダン屋の隣には同じく駄菓子屋の加賀屋が‥。こちらはバクダン屋とは違いパチモノのキャラクターグッズではなく、所謂本物のキャラクター商品や10円ゲームなどが充実しておりました。子供心にも「ハイセンスな駄菓子屋」が加賀屋でした。


【川遊び編】
オレの夏やすみ 養老渓谷の弘文洞、粟又の滝にカッパ淵の少年
https://note.com/sanadado/n/ne2e355932875

午前中のお話「早朝編」「定例パトロール編」からの続きで、午後のお話になります。県紙「千葉日報」の新聞記者だった父の同行で、養老渓谷の取材に連れて行ってもらった思い出です。


父の養老渓谷の取材に私たち兄弟が同行するのが羨ましくなったのか、近所の子の一人がちゃっかりついてきましたw


この当時の父の車、トヨタのスプリンターセダン1600GS バンパーのコーナーポールに新聞社の旗がついています。


このお話は地理間があまりにも分かりにくいため、Googleマップに実際に走ったルートを記載してみました。こんな山の中を走らなくてもよいのですが、この時期は大多喜バイパスがまだ出来ておらず、そして昭和の時代だったためか勝浦や大原に向かう都会からの海水浴客の車が非常に多くて、常に大多喜の町なかの国道が混んでいたので、抜け道として大多喜城の方から抜け道を使い、養老渓谷方面にアプローチしています。


大多喜町老川の交差点は、今と位置が違って老川小学校の前を通るものでした。Googleマップ上では、その「旧道」をトレースしています。


養老渓谷で車を停めた岩屋食堂のドライブインには、夏休みシーズンだからか大判焼きの屋台が出ていました。真夏なのに大判焼きかと少々驚いた記憶があります。そしてその時代、なぜか大多喜町と勝浦市では、大判焼きは「きんつば」と呼ばれておりました。その辺りのいきさつも書きました。


父の取材で向かったのはトンネル川の弘文洞。そこに至るにはこの二階建てトンネル「向山トンネル」を抜けていきます。昨今この二階建てトンネルがインスタ映えがすると有名になっていますが、、昭和の遥か昔から、ここはこんな妙なトンネルでした。


トンネル川の弘文洞、まだ上部が繋がっておりトンネルになっている状態のものです。こちらの上部の橋部分は、この写真の後1979年に崩壊して、単なる崖になりました。


弘文洞の現在の様子。はい、単なる崖です。。


このトンネル川「弘文洞」が作られた経緯などを解説する図をおこしました。ようは川を一部ショートカットして農地を作ったのです。なんでこんなことをするか?房総丘陵では農地に適した平地が少なかったということが大きな理由だと思います。


弘文洞の前の養老川で川遊びをする当時の私たちを描きました。


お店で食べるカキ氷は格別!真夏の最高のご馳走ですね。


弘文洞の取材の後、まだ時間があったので、粟又の滝にも向かいました。老川の交差点より先は、この当時はアスファルトではなく砂利道でした。


地獄へ通じそうな粟又の滝の謎めいた門 不気味な石像までありました。2011年頃まで現存。


粟又の滝と滝つぼの様子。川面の色の濃い部分が深いところで、最大5.8mあります。


粟又の滝 全景 滝の頭頂部から滝つぼまでの長さは100m、滝の落差は30mあります。撮影はInstagramのお友達モンチャッカ星人さん 2022年撮影と思われます。


100mのなだらかな滝面を持つ粟又の滝は、昭和の大多喜キッズの天然ウォータースライダー、お話の時代1977年に出来た「としまえん」のウォータースライダーが尻に帆を掛けて逃げ出すような、そんな「本物」の体験が出来ました。現在は水難事故多発のため滝スライダーは禁止、滝での遊泳も禁止です。令和のよい子は絶対真似しないように!


粟又の滝で遊んでいると、粟又地区の地元の子と出会い、一緒に遊びました。私は昔からアメリカ人もビックリの上辺だけのフレンドリーさが得意技なのです。


粟又地区で出会った少年は、確かこんな顔をしていました。劇中では「三郎太」としていますが、確か本名は三郎君だったと思います。


粟又の子に教えてもらった滝滑りコース。このコースをとることで、一度も止まることなく上から下まで滑り降りれました。しかし今は滝の流れなどが変わっている可能性があり、危険ですのでやらないように!


一緒についてきた近所の子がおぼれかけて、粟又の地元の子に助けてもらいました。彼は川遊びに慣れているためか、その小学生離れした飛び込みに私たちはビックリでした。泳ぎも達者で、それはそれはまるで河童じゃないかと思えるほど見事に泳ぐのです。


「この浮き輪と夜空を見上げるたびに思い出すんだ、オレは漢「おとこ」だユーイチだ!」
詳しくはお話を参照ァ '`,、'`,、('∀`) '`,、'`,、


粟又の子は、その後一度も会うことがありませんでした。離れているとはいえ同じ町内なのにちょっと不思議です。この辺りには昔から河童伝説が幾つもあるので、あの子は実は河童だったのかもしれないなぁとかボンヤリ今でも思うことがあります。

大多喜無敵探検隊-since197X
佐奈田隊長回顧録
https://note.com/sanadado