あー、このシルバーウィーク期間中は、色々と公私共に忙しく、
昨日、9月27日も、南総/外房の隠居の家に行ってきました(ヽ'ω`)
で、この日は、自分が子供の頃に育った大多喜町の「大多喜お城まつり」の日でもありまして、
母親も引き連れ、イソイソと見に行ってきました

自分は小学生の頃、第4回時の武者行列に参加したんですが、
このお祭り、今年で41回目なんですね~、感慨深いものがあります
しかし当時と比べると、段々規模が小さくなってますね、
地元小学生の武者行列は、少子化のせいで減ってるのはわかるんだけどなー、
それ以上に、やっぱ予算がないんだろうな(´・ω・`)
規模の縮小以外にも気付いた点として、、
昔は比較的軽装備で一番多い足軽や、資材運搬のリアカーみたいなのもあり、
その当時の武者行列は、今よりかなりリアルなものだったように記憶しています
しかし昨日見たのは大鎧ばっかり、
つまり司令官クラスの出で立ちをした人ばかりがやたら多く、まるで鎧コスプレ大会みたいだった(;´∀`)

そして大多喜町の、この本多忠勝の武者行列とは、
多分、以下のどれかをモチーフにしているんだと思いますが・・
1. 天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収される際に、
 大多喜城にやってきた本多軍の武者行列、この時に対応したのは里見氏側の代官
2. ここから関ヶ原の合戦に向かった
3. いすみ市にある万木城の土岐氏を攻めに行った
そもそも本多忠勝さんは、大多喜城には10年弱しかいなかったので、
軍勢引き連れて、彼が大多喜城から出陣する回数は、上記のように大してなかったと思います(´・ω・`)
もちろん武装していない平和な大名行列ってのは、それなりにあったとは思いますが、
このお祭りでの出で立ちは、鎧武者に剥き身のナギナタ、槍とか装備だもんなーw
・・で、よく見ると、大多喜城から追い出された筈の、里見軍や正木軍、
さらには徳川軍に敵対した北条軍の大鎧も一緒に闊歩しているし・・
あぁ!彼らは捕虜か!!(察し
だから鎧武者なのに馬にも跨がらず、終始歩いているんだな
各々方、オイタワシヤ(´;ω;`)
心中お察し申し上げまする・・(-人-)
※この時代のウチの先祖は、本多忠勝氏に大多喜や勝浦を明け渡した正木氏や里見氏のとこで重鎮してたようで、
 小田喜衆と呼ばれていたようです
※小田喜衆について→「大多喜町史に書かれた先祖達「小田喜衆」の苦悩、そして帰農という選択をした

以下、写真を50枚近くUPしときます
曇りがちで、しかも陽が傾いてきていたというのもあり、
光量不足のせいか、写真がみんなピンぼけ気味になっちゃいました














































【関連日記】
【藤岡弘、参上!】武者行列 2016年 第42回大多喜お城まつりに行ってきた(((゚Д゚)))つ【その1】
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2016-09-26

【過去の大多喜お城まつりの日記】