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治承・寿永の乱についての分かりやすいblogハッケン(゚Д゚)! [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

相模、そして安房の郷土史好きには避けて通れない
「治承・寿永の乱」についての分かりやすいブログハッケン(゚Д゚)!

勝手にご紹介させていただきますw

何事も楽しきと思ふが楽しきもとなり。
http://ameblo.jp/eternal-peace0826/

・・・の、中の

ブログテーマ「治承・寿永の乱」 まとめページ
http://ameblo.jp/eternal-peace0826/entry-11421498341.html

いやマジわかりやすいわコレ!
勉強になりました!


PEACEさん
あ(・∀・)り(・∀・)が(・∀・)と(・∀・)う! 

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(映像は、上総広常氏)



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大鎧を着てみた( ゚д゚ ) [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

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あー幾つか前の日記にも使っているこの不気味な鎧武者の写真、
実はワタスィですw
まぁコレは、とあるところで使う予定の自分のプロフィール用の合成写真なんですけどねw
「自分の写真」とは言いながら、自分の目しか世間に公開されてないところが
意外と恥ずかしがり屋のワタスィにはピッタリですwww<大鎧

ちなみにこの手の大鎧、
大鎧がほぼ今の形になった平安時代中期以降、鎌倉時代や戦国時代も勿論
一般の兵士がおいそれと着用できるものではなく、精々部隊長や殿様しか着ていなかったようですわ
まー見るからにゴージャスで手間もかかるシロモノでしょうし、
もちろん当時としてはかなり高価なものだったんでしょう
超お金持ちの武家のとこならともかく、所謂フツーの武家のとこの一般兵卒などが、
軽々しく手に入れられるわけもありませんわなー( ゚д゚ )

あーつまり、映画やアニメの戦国時代などの合戦シーンで大鎧(兜付き)ばかりの大集団が、
戦場を縦横無尽に走り回っているというのは
ぶっちゃけ「大嘘」なんですよねwwwwwwww

下っ端は胴着に鉢巻きぐらいで敵陣に槍持って突撃していったんでしょうねー

そして大鎧は重い!
平安時代のもので刀など周辺装備一式を含めた総重量は40kg前後、
時代が下った戦国時代以降のものでも20~30kgだったそうで、
(一説にはもっと軽いと、まぁハンドメイドですし色んなバリエーションがあるんでしょう)
40kgなんていったら、体が今より小さかった当時の人の体重と、ほぼ同じ重さなんじゃないでしょうか
自分の体重と同じぐらいの重さの鎧着て、荒れ地を刀や槍をブン回しながら走り回るなんて芸当は、
いくら日々肉体を鍛えていたであろう先人達といえど、
決して楽じゃなかったでしょうねー
ちなみに現物の刃のついた刀や槍もエラい重たいです、
現代人が持ってみたら、マジにズシっときますよ
あんなん振り回すのマジにメンドクセーっすわ(´∀`)

走り回って刀振り回し武功上げたいなら、間違いなく軽装の方がいいに決まってます
そんな彼らに指示を出すエラい人が、動きは悪いがみんなの頭脳でもあるんで、
こんな大鎧着て、主にフロントライン(前線)後方に布陣してたんでしょうねー

まー今も昔も社会の構造ってのは、基本的に変わらんわな、
力はあるが知恵は足りない若いヤツが、
先陣切って突撃する一万円スーツのノンアポ営業や、ITドカタのSEなど、いわゆる使い捨て消耗品で、
エラいヤツはエアコンの効いた快適な本社オフィスから
アルマーニのスーツ着てコーヒーでも飲みつつ、呑気にメールと電話で現場に指示を出す、と・・・
まぁそんな下っ端の中からも武功をあげて伸し上がり、やがてアルマーニを着る者が出てくるでしょうけど、
大鎧とは、まーそんな「エラいヤツ」のための高級スーツみたいなところがあるんでしょうね(・´з`・)
まぁでもケツに火が着いてくりゃ、そんな「アルマーニ姿」であっても、
前線で泥だらけになりながら先陣切って突撃し、槍や刀を振り回さなくちゃイカンでしょうがww


あーそうだ、「大嘘」ついでにもう一つ、
時代劇や歴史モノ映画やアニメなどで、よく刀と刀の刃同士をぶつけ合う「打合せシーン」ってありますよね
あれも、嘘とは言いませんが、あまりなかった(避けてた?)と聞きます
理由は、アレやったらお互いの刀がすぐ刃こぼれしちゃってw
その後、刀が使い物にならなくなっちゃうんですよねww
予備も幾つか持参してたなんて話も聞きますけど、
何より戦場で刀の切れが悪くなると、相手に一打を与えられず、
返す刀で今度は自分がやられますww
人間を斬るというのは、柔らかい肉だけでなく、硬い骨をも斬りつけることになり、
結果的に刃が傷みやすいんですよね
無用な刃のぶつけ合いは、戦場での自らの命取りにもなりかねないと・・・

では、そんな武士達は敵の刀をどうやって避けるのか?
ヒラリヒラリッと、相手の刀をまるで曲芸のようにかわしてたようですw
まぁ今となってはその状況を確かめようもないのですが、
イメージ的には、武士って、もっと威厳のある重々しい動きでもしてるのかな?とか思い込みがちですが、
実際はそうでもないらしいですねww

大鎧を着る後方の武将は、鎧自体が重たいんで、結果重々しい動きになりがちでしょうけど、
突撃兵クラスの前線の男達は、蝶のように舞い、蜂のように刺したんではないでしょうかね


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ウチの印鑑、名字表記は四種類ヽ(*´∀`*)ノ [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

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上から古い表記順(全て認め印です念のため) 

自分ちは、戸籍で登録されてる上から二番目の表記を主に使ってるけど、 
認め印レベルなら上から三番目、四番目でも公文書で捺印&直筆ともヨユーで通用します 
ちなみにこの三番目と四番目は、当時のお国の略字選定(だったっけな?)で、
それぞれの時代に生み出された
新字体なんですね 

そして一番上の三文字の「佐奈田」は、ほんと昔っからの表記なんですが、 
幾ら古い字だからといっても文字面が戸籍登録されてる「眞田」と全く違うため、公文書では通じません、
マジ出し戻しされましたw<実証済み(わかってるようなことあえてやるオレ!)

じゃーこの「佐奈田」じゃなく「眞田」の表記を、ウチが一体いつ頃から使っていたか?なんですが、
古文献とか見る限り、600~700年前から、何故か「佐奈田」と併用して使われていたようですね
更に昔は大体が「佐奈田」表記で、その他に「佐那田」「佐名田」、そして「実田(さなだ)」だったようですが、
時代が下るにつれ「眞田」表記が多くなり、
明治時代以降には完全に「眞田」表記がメインになっていたようです

まーどーでもいいっちゃーどーでもいい話なんですが(゚ω゚) 


つい先頃、ちょっとした書類に捺印する際(アマゾンの荷物w)、どれで捺そうか一瞬悩んだんでw


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大多喜町の地獄橋(じごくばし) [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

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国道297号線沿い、大多喜町と勝浦市の境界の三又川にかかる小さな橋「地獄橋」
この辺りは戦国時代、安房国から上総国に進出しようとする正木氏や里見氏、
それらを阻もうとする真里谷武田氏や土岐氏などと、幾度となく壮絶な戦があった地です
そして戦が落ち付いた後、
勝浦城や大多喜城(根古屋小田喜城)に、
正木さんと共に、ウチの先祖である房総眞田(佐奈田)本家・本家筋の先人達が重鎮として赴任したことからも、
その前段階でもあるこれらの地の戦に、幾人もの先祖衆が参加してたんだろうと・・・
そんな事を知るようになると、ここを用事で通過するたび、なんとも言いようのない切ない気持になります

ちなみに先祖の働き先である勝浦城や大多喜城は、戦国時代の末に本多忠勝さん達がやってきて、
惣無事令に伴う、里見氏の領地「上総」の没収、城の明け渡しにより出て行くことになり、、
自分ら先祖は長年住んだ故郷である南房総市和田町の三原郷に戻り、その北縁で主だった者は帰農し、
明治維新・文明開化の頃までそこでひっそりと暮らしてました('A`)

まぁこんな話があるから、いまだに南房総市和田町の地元では、
三原郷の北縁地域は「平家の落人村」って勘違いされて言われるんだろうなw
ウチは正確には平家(主に関西の伊勢平氏やその味方勢力)ではなく、坂東豪族の桓武平氏で、
源頼朝さん達と一緒に、平家に反抗した側なんですけどね

以下、大多喜町三又界隈に伝わる、
この地獄橋にまつわる民話を見つけたので、
転載しときます

時まさにお盆、
ご先祖さん達、そして相対した敵方達の冥福を祈り・・・(-人-) ナームー


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地獄橋(じごくばし) 


 国道二九七号線、大多喜町と勝浦市の境に『地獄橋(じごくばし)』と呼ばれる橋がかかっている。何も地獄なんて縁起の悪い名前をつけなくていいのに、と思っていた。 だが、この橋が地獄橋と呼ばれるようになった話があったのだ。 



 ♪世は戦国の房総に 
  武田(たけだ)や正木(まさき)の根古谷城(ねごやじょう) 
  万木(まんぎ)の土岐(とき)と 幾度か 
  干戈(かんか)交へし 刈谷原(かりやばら)・・・ 
        『大多喜城讃歌』詩・尾本信平 

 歌にも歌われているように、戦国時代、房総の武将は勢力拡大(せいりょくかくだい)のため、各地で小競り合いをくりかえしていた。 大多喜には武田、正木、隣の夷隅には土岐、安房には里見・・・あまたの武将がいくどとなく戦をくりかえしていた。 
 今となってはだれとだれが戦ったか確かなことはわからないが、今の大多喜町と勝浦市との境も戦(いくさ)があった。 
 霧が立ちこめた未明のことだった。 
「あの砦に攻め込め」 
大将の命令で数千の兵が砦(とりで)に襲いかかった。壮絶な戦いが始まった。馬も人もいっせいに走りはじめた。 
「敵は逃げるぞ、一気に追え」 
不意の襲撃(しゅうげき)に兵達はただ逃げるしかなかった。 
「射(い)よ、射よ」 
弓を徹底的(てっていてき)に射させた。倒れた兵の体からおびただしい血が流れた。 

「火をつけろ」 
砦はたちまち赤い炎につつまれた。 
「一人残らず殺してしまえ」 
逃げまどう兵に向かって、さらに弓を放った。 
 砦は焼き払われ、死んだ兵はもちろん死にきれず息のある者まで焼き殺された。血のにおいと死体の焼ける異様なにおいにつつまれた。 
 やがて空が真っ黒になり、雷鳴(らいめい)がとどろいた。稲妻(いなずま)がバリバリ走る。風が吹き、雨がふりだした。倒れた兵に容赦(ようしゃ)なく雨がたたきつけた。 その光景はまさにこの世の地獄であった。 

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 この戦の後、この橋をだれいうともなく『地獄橋(じごくばし)』と呼ぶようになり、戦の悲惨(ひさん)さ、残酷(ざんこく)さを今に伝えている。

おしまい


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房総の豪族「眞田氏と、その遺跡」についての記述を抜粋 南房総市 和田町史より [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

南房総資源辞典 和田町史 近世の村々
http://www.mboso-etoko.jp/dictionary/article.php?flg=2&code=1573

前にもblogで紹介した内容ですが、何気に上記URL先を読んでると、親戚が住所モロバレで登場してるっすw
この文中の(新田)(木左衛門)(松葉)は屋号です 
大多喜城や勝浦城を追われた後(正木氏の上総撤退)、三原郷の真浦村から分村した布野に戻り、 
江戸時代はこの地でひっそりと暮らした様が垣間見える
まーだから近隣に「平家の落人村」だなんて言われるのかな
(´;ω;`)ウッ… 
(平家の落人村は誤解だぜぃ!)

ちなみにここに書かれている(新田)屋号の真田高次(眞田高次)氏は、
もう既に亡くなられていて、現在は次の世代になっております

以下、「南房総資源辞典 和田町史 近世の村々 布野村」より抜粋します
抜粋するにあたり、読みやすいように、私の方で漢数字と改行や濁点など、インターネット用ということで直しておきます
どうも印刷物をスキャナーで読み込み、なんかのアプリでテキスト化したようで、明らかな誤字がありますね
あーそうそう、親戚の住所の番地表記もxxxとし、ここでは濁しておきます
(´Д`)
 

(2) 真田氏とその遺跡 
三原の地に、いつごろからか、相模国の名族三浦氏の流れを汲む真田氏が、在地の豪族として君臨していました。 
中三原の正文寺、同じく唐ケ作の諏訪神社の創建。
そして、真田氏と深い関係があるだろうと推測される和田町布野xxx真田政夫氏(木左衛門)、同xxx真田高次氏(新田)、同xxx真田明氏(松葉)の三氏ですが、確かな物証がなく残念です。
古老の口伝や、戸田七郎氏著『南総正木太平記』によりますと、真田氏とのかかわりは、次のように伝えられています。 
真田氏は、三原城(神田の城山)を築き、菩提寺と鎮守の社も建ててこの地を支配したのです。
安元・治承(1175~81)のころ、時の真田氏の頭領、真田源吾という人が、中三原に禅宗の一祠を建てて一族の菩提寺としました。
更に、真田氏は貞応年間(1222~24)には和田町中三原唐ケ作に諏訪神社を創建して、地域との連携を図りました。 

正文寺に残っている真田氏の遺跡は、祖師堂の向かって左手の裏山の中腹にある洞窟の中に刻まれている磨崖仏四基です。
「これは明らかに禅宗当時の真田氏の墓で、その所以は磨崖仏の中の一基に、日蓮宗では使用しない阿字(久)が刻まれているからです。これでこの磨崖仏は改宗前の禅宗当時の真田氏の墓地に相違ない」と、住職の斎藤貞譲氏はいわれております。
更に、薬師三尊像(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)の磨崖仏がありますが、その一部が削り取られたようになっていますが
「この仏像は薬師三尊像で、薬師如来の信仰は日蓮宗にはないので、日蓮宗に改宗したときに毀釈した残像でしょう」と、齊藤氏はいわれます。
また、正文寺の東方、三原川を越えた小川原の中に経塚と呼ばれる土塁がありますが、
これは正文寺が日蓮宗に改宗された際に禅宗当時の「経典類焚書の地」と言い伝えられ、人々は近寄らず今は荒地となっています。 

安元・治承のころから鎌倉時代を経て、大永・享禄のころまでおよそ350年の歳月が流れています。
その間、真田氏は、中三原の城山に城を築き、城内に八大竜王(難陀・跋難陀・娑翔羅・和修吉・徳叉迦・阿那婆達多。摩那斯・優鉢羅竜王)を祀って五穀の豊穣を祈り、寺谷に寺を建てて祖先の菩提を弔い、唐ケ作に諏訪神社を建てて氏族の鎮護としました。
特に、典型的な地域に根を下ろした豪族でした。
もちろんその間には、多少の盛衰はあったでしょうが、それでも連綿として300年以上も家系を伝えていたものと思われます。 
現在の和田町小川の「とうしろ台」辺りに拠った境井氏が里見に反旗をひるがえした時には、真田氏は里見の将正木時綱に味方をして、ともに戦ったものと思われます。
その時、真田氏の氏神諏訪神社にも累が及んで荒廃したものでしょうか、永禄年間(1558~70)に修築が行われています。 

やがて境井氏を減ぼした正木氏は、正木郷、三原郷、長狭郡を領有しますと、領域内の豪族や有力国人地侍層で正木譜代の直属家臣団を形づくっていきましたが、その一員として、三原の在地領主 真田隼人佑の名があります。
あるいは大永、享禄のころの真田氏の当主であったかも知れません。 
正木氏はその後、大多喜、勝浦を前進基地として、東上総に進出しますが、三原の豪族の真田氏は房州出所の直属家臣団の一員として特に重用され、
真田隼人佑をはじめ一族の主だった者たちは、大多喜や勝浦へと移って行きました。
もちろん、分家、庶家の中には、そのまま三原にとどまって家系を保った者もあったはずです。
そして、天正18年(1590)正木氏の上総撤退時には、再び古里の三原に帰った真田一族があったと思われます。 

また中三原宿の台地の三原城吐は、大永・享禄(1521~1532)のころから慶長10年(1605)までのおよそ7~80年間、正木氏の居城あるいは館の吐でありました。 
なお、正木兵は、中三原の入口を守る城山、小川のとうしろ台の要害は、ともに砦、見張り、詰城、控え城として活用していて、むしろ全体が三原城であったとも考えられます。とうしろ台城といわれるこの城祉には、城井と思われる湧水が残っており、駒場、根方、堀の内、宿、向根、馬場などの地名が今なお残っています。 
和田町布野xxx番地 真田明氏の墓には、真田家の家紋六文銭(六連銭)が刻されている石塔があります。 
刀や槍などが数多く保存されていたそうです。

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文中にあった 戸田七郎氏著『南総正木太平記』はこれ↓
実は昔から家にありますww
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この本は、ウチの先祖の事はもちろん、
主に房総半島の、大小含めた豪族や地侍たちの歴史が色々書かれてて面白いっすよーん(´∀`)

以下から買えるようにリンク張っときましたが、、
なんかエラい高くなってるのねん('A`)
ちなみにウチにあるのは初版本です


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