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中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田) ブログトップ
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【雑談所】やる夫が真田家に生まれたようです 雑談所その10 【2ちゃんねるより抜粋】 [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

あー、自分の名字で、仕事の合間にちょっと検索かけて遊んでたら、
2ちゃんねる上でこんなの見つけました

【雑談所】やる夫が真田家に生まれたようです 雑談所その10
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/otaku/12368/1348419367/-100 

932 :普通の名無しさん:2014/06/21(土) 05:30:47 ID:KcUUsuek 
房総のほうに真田三河守とか、信濃守なんて武将がいるけど 
これは同族だろうか? 
どうもこちらの真田は眞田、佐奈田とも書くらしいが。 

933 :普通の名無しさん:2014/06/23(月) 19:58:41 ID:pRvlUrpA 
詳しくはないけど、寺などの現地伝から房総眞田は三浦半島からの土着と伝わっているみたいだね 
三浦党岡崎氏に佐奈田与一義忠(三浦泰村の祖父三浦義澄の従弟)って人物がいて、 
この佐奈田は相模国大住郡真田(現・平塚市真田)を領したことからの名乗り。 
房総眞田氏は、この佐奈田与一義忠の子孫か義忠以前に大住郡真田を領していた分家系を出自とするということになって 
信濃国小県郡真田を興りとする信州真田氏とは別氏族ということになると思う 

934 :普通の名無しさん:2014/06/26(木) 12:05:11 ID:VMfe8Bvg 
真田、眞田、実田などの『さなだ』って実り高い良い田んぼって意味だからな 
小県の真田以外にも地名であったっておかしくは無いし 



・・分かってくれてありがとう (ノ∀`)
先祖達もきっと喜びます
あー、でもちょっと補足したいw

上記BBSで、名が出た先人達以外にも、
こんなご先祖さん達もいます ↓
三浦党 房総眞田氏、郷土史などに出てくる先人達の名
https://sanadado.blog.ss-blog.jp/2014-09-30


【関連日記】
三浦党 房総眞田氏、郷土史などに出てくる先人達の名
https://sanadado.blog.ss-blog.jp/2014-09-30
中世から近世、小豪族のウチ「房総 佐奈田/眞田」先祖達の生き残りの歴史
https://sanadado.blog.ss-blog.jp/2012-07-19
三原眞田 / 三浦眞田の故郷 安房の三原郷
https://sanadado.blog.ss-blog.jp/2015-12-10-1
中世豪族 眞田氏の三原城 そして神田山の三原城山城
https://sanadado.blog.ss-blog.jp/2013-01-01
中世豪族 眞田氏のやぐら・磨崖{まがい}五輪塔 南房総市指定史跡
https://sanadado.blog.ss-blog.jp/2013-04-20-1
三原郷の鎮守の社 諏訪神社
https://sanadado.blog.ss-blog.jp/2021-09-06
眞田、真田、佐奈田、、サナダという地名と名字の由来
https://sanadado.blog.ss-blog.jp/2009-09-20-1
佐奈田与一(眞田与一)の子孫について
https://sanadado.blog.ss-blog.jp/2011-07-13
房総の眞田一族にも六文銭を家紋に使う家系があります
https://sanadado.blog.ss-blog.jp/2011-07-13-1
【雑談所】やる夫が真田家に生まれたようです 雑談所その10 【2ちゃんねる より抜粋】
https://sanadado.blog.ss-blog.jp/2015-01-14-1

[中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]カテゴリ一覧
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三浦党 房総眞田氏、郷土史などに出てくる先人達の名 [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

あー、自分の先祖達である「三浦党 房総眞田」、もしくは「三原眞田」と呼ばれる一族、
その中でも郷土史などに出てくる名を書き出しておきます
文中には「佐奈田・眞田・真田」とありますが、これらは各引用元の書籍が編纂された時代により、その表記がまちまちなだけで、全て同じ一族を指します
自分が書き足したコメントに関しては、基本的に自分の名字表記と同じ「眞田」としております
青字は抜粋文

【 眞田源吾
(佐奈田源吾とも) 

安元・治承(1175~1180)以前から三浦半島より渡って土着した真田氏の頭領
禅宗の寺(現在は日蓮宗に改宗)・正文寺には、由縁のある摩崖五輪塔が四基(南房総市指定文化財)あり、
真田氏の供養塔と伝えられている

・・と、和田町史をはじめ、様々なところに記述されています
相模国大住郡岡崎郷の佐奈田村から、安房国朝夷郡の三原郷に開拓領主として土着した、房総眞田(房総佐奈田)の元祖と言われています

【関連日記】
中世豪族 眞田氏のやぐら・磨崖{まがい}五輪塔 南房総市指定史跡
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2013-04-20-1
中世豪族 眞田氏の三原城 そして神田山の三原城山城
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2013-01-01
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【 眞田刑部左衛門尉 】

館山市九重地区の郷土史によると、
応永30年(1423年
安東又三郎の旧領安東郷内朴谷村が真田刑部左衛門尉に押領される。
鎌倉公方足利持氏、安房国守護上杉定頼に対し、同地を鎌倉極楽寺へ渡すよう命じる。
・・と、あります
要は近隣の郷に、武力による侵略・鎮圧を行ったということ(;´∀`)
【関連日記】
眞田刑部左衛門尉 室町時代のご先祖の足跡
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2012-11-14


【 眞田兵部少輔 】

「三浦系図」によると、三浦時高が、眞田兵部少輔(ひょうぶのしょう)の嫡子として、三原眞田当主になっております、つまり養子、婿養子でしょうかね


【 眞田明高 】

「上杉系図」によりますと、三浦高救(たかひら)が、眞田明高の嫡子として、やはり三原眞田の一党の養子となっております


【 眞田隼人佑 】
現在の和田町小川の「とうしろ台」辺りに拠った境井氏が里見に反旗をひるがえした時には、真田氏は里見の将正木時綱に味方をして、ともに戦ったものと思われます。
その時、真田氏の氏神諏訪神社にも累が及んで荒廃したものでしょうか、永禄年間(1558~70)に修築が行われています。 
やがて境井氏を減ぼした正木氏は、正木郷、三原郷、長狭郡を領有しますと、領域内の豪族や有力国人地侍層で正木譜代の直属家臣団を形づくっていきましたが、その一員として、三原の在地領主 真田隼人佑の名があります。
あるいは大永、享禄のころの真田氏の当主であったかも知れません。 
正木氏はその後、大多喜、勝浦を前進基地として、東上総に進出しますが、三原の豪族の真田氏は房州出所の直属家臣団の一員として特に重用され、真田隼人佑をはじめ一族の主だった者たちは、大多喜や勝浦へと移って行きました。
もちろん、分家、庶家の中には、そのまま三原にとどまって家系を保った者もあったはずです。
そして、天正18年(1590)正木氏の上総撤退時には、再び古里の三原に帰った真田一族があったと思われます。 
・・と書かれています
 「千葉県史料 諸家文書 162号」「和田町史」「戸田七郎氏著『南総正木太平記』 」などに記載
この一連の事件(?)は、大永・享禄の頃、つまり(大永)1521年から1527年までの期間、及び(享禄)1528年から1531年までの期間におこりました
この時代、主に里見氏の軍代であった正木氏の重鎮として、三原郷を出て、大多喜(小田喜/小田木)や、勝浦に向かったのが、平安時代から続く、房総眞田の本家・本家筋、三原眞田とも言われる一族です


【 宇田眞田 】
蓮重寺  住職 影山強俊
1、所在  宇田78
2、称号  真田山 蓮重寺
3、所属  日蓮宗 明覚寺末
4、本尊  日蓮像御題目掛軸
5、創建  元和7(1621)年辛酉5月
6、由緒  当寺は房州里見の家臣真田三河守、諡号日成法入道、子息蓮心菩提のため、慶長12(1607)年丁未6月15日発願、元和7年一宇を創建し、真田山蓮重寺と号し今日に至る。尚宇田真田家は三河守の末窩で宇田地頭でした。当家に蓮重寺に関する重要古文書類が多数保存されています。「千倉町史」
宇田眞田は、南房総市千倉の宇田に土着した一族です
その始まりは、戦国時代中期から後期の頃、三原眞田から某家に婿養子として出た人物が、地元の言い方で「とても勢いがよい」方だったようで、そのため後に家名を「眞田」に変えたと言い伝えられています
宇田眞田は、主に里見氏の家臣団に着いていた一族で、豊臣秀吉との伝承もある家系です
宇田眞田一族には、上記の眞田三河守以外にも、真田尾張守真田信濃真田権之助らが、里見氏の重鎮、及び、軍の筆頭として名が残っており、宇田眞田の一党だと思われます
(真田尾張守さんは、宇田眞田ではなく、三原眞田かもしれないです)


【 安房里見氏の家臣の中の、房総眞田 】
忠義時代の家臣中、重要な人物だけを、
慶長10(1605)年の「里見家領国房州村高割附帳」中で見ると次の通りになります
この後、里見氏は改易処分を受けるので、下記は、館山藩の里見氏最後の家臣団なのかもしれません
正木大膳・8,000石、正木源七郎・3,351石、薦野甚五郎・2,524石、正木環斉・1,000石、板倉大炊助・967石余、堀江能登守・1,352石、正木美濃守・1,400石余、正木久太郎・2,269石余、正木弥九郎・914石余、正木金太郎・1,519石余、山本清七郎・1,351石余、長谷川隼人・1,010石、大島不染斉・703石余、岡本兵部少輔・294石余、印藤采女・306石、角田丹右衛門・250石、里見揚安斉・300石、正木淡路守・700石、堀江四郎左衛門・200石、宅間監物・350石、本間宮内・350石、安西市正・300石、黒川権右衛門・300石、横小路將監・200石、板倉洗斉・200石、山本権之助・200石、正木孫作・200石、正木佐一右衛門・250石、本田藤左衛門・300石、関甚平・190石、安西彦右衛門・200石、安西七郎次・200石、武田太郎二郎・150石、黒川彦四郎・150石、正木蔵人・200石、眞田瀬兵衛・200石、三浦半左衛門・150石、 眞田信濃・100石、正木兵庫・100石、安西久助・100石、金井筑後・100石、御子神大藏・300石、和田甚九郎・250石、岩原主計・200石、宇都彦四郎・350石、眞田三九郎・200石、安藤松斉・50石、森伯耆守・50石、塚原五郎左衛門・100俵、眞田三河・50石、秋山惣右衛門・50石、吉田半十郎・50石、竜崎兵庫・50石、眞田庄三郎・50石、朝夷南源助・50石、吉田新四郎・50石、石井大和・50石、吉田与市・50石、栗原半兵衛・50石、木曽庄九郎・70石、堀内庄左衛門・50石、石井縫之助・50石、佐野才三郎・50石、川名彦右衛門・50石、円蔵院・50石、真野寺・50石、小松寺・12石、円明院・10石、真言宗徳蔵院・2石


【 眞田木左衛門 】
戦国時代が終わり、江戸時代に入って、三原眞田の本家及び本家筋の主だった家は、戦国時代の末に移転した先から故郷の三原郷に戻り、その殆どが江戸時代に入り帰農し明治時代を迎えました
その中でも三原眞田の本家の一派として「木左衛門(もくざえもん/きざえもん)」の名が、現在まで屋号で継承されています
おそらくは、武家としては最後の房総眞田の頭領の一人だった先人の名なのではないかと思われます
その他、三原眞田の本家として「新田(しんでん/眞田の訓読み)」「松葉(しょうよう/家紋が六文銭)」という屋号が残っており、それぞれの家にも、様々な言い伝えがあります

そんなウチの、一族全体を俯瞰した話はこちら
( ゚д゚ )つ 中世から近世、小豪族のウチ「房総 佐奈田/眞田」先祖達の生き残りの歴史
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【関連日記】
三浦党 房総眞田氏、郷土史などに出てくる先人達の名
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中世から近世、小豪族のウチ「房総 佐奈田/眞田」先祖達の生き残りの歴史
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三原眞田 / 三浦眞田の故郷 安房の三原郷
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中世豪族 眞田氏の三原城 そして神田山の三原城山城
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中世豪族 眞田氏のやぐら・磨崖{まがい}五輪塔 南房総市指定史跡
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三原郷の鎮守の社 諏訪神社
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眞田、真田、佐奈田、、サナダという地名と名字の由来
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佐奈田与一(眞田与一)の子孫について
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房総の眞田一族にも六文銭を家紋に使う家系があります
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【雑談所】やる夫が真田家に生まれたようです 雑談所その10 【2ちゃんねる より抜粋】
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「房総の頼朝伝説」という本を読んでて思った色々(^ω^) [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

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最近、笹生 浩樹氏 著「房総の頼朝伝説」を、
通勤の地下鉄内で、懐かしさと共にじっくりと読み込んでます(´∀`)

自分の故郷でもある、房総半島南部は、
「イイクニ作ろう鎌倉幕府」で有名な、源頼朝公の伝説が多い地域です
彼は、弟の義経さんを殺した兄として、
また、非常に残酷な決断を下す人物として、しばしば冷淡な人と思われがちなようですが、
少なくとも自分の故郷では、そんな見方をする人はおらず、
共に戦った英雄、気さくな人、弱さも持った人間臭い人、
そして頼りになる大将というイメージなんじゃないかな、
かなりプラスイメージで捉えられていると思います

源頼朝さんは、混沌とした平安時代末、治承4年(1180年)に、
当時の世間を牛耳っていた伊勢平氏、いわゆる平清盛公を中心とする平家に対し、
クーデターを起こしたわけですが、石橋山の戦で敗退、
そして落武者となった源頼朝さんは山中に逃げ込み、
再起を図るために、味方の多い房総半島南部の安房国に、船で渡ってきました

安房を始めとする当時の日本の東国は、
まー簡単にいうと「地方」ということでかなり色々と都=伊勢平氏に虐げられていたようで、
地元の豪族連中も不平不満で一杯だったようでして、、
そんな背景もあり、
東国の豪族が源頼朝さんを担ぎ上げ、クーデターに参加したわけですね

あー、ちなみにこの石橋山の戦は中々にひどいもので、、
蓋を開けたらおおよそ無謀な戦だったようでして・・
まー天候の悪化で、予定通り味方が集結出来なかったため、
敵に対し1/10程の戦力で戦ったわけで、、
その割には大将(頼朝さん)を逃すことが出来て、まー、よく善戦したよなぁと
その際、佐奈田与一さんという、ウチの身内とも言える武将が戦死してます(;´∀`)

そして房総半島の安房国に渡ってきた頼朝さんは、
この地が、頼朝さんの味方でもある三浦党牛耳る安全地帯という側面もあり、
ここを起点に上総や下総、武蔵国などの豪族達に協力を乞う書状や特使を出しています

そこからの歴史は、一般の教科書などで書かれている通り、
雪だるま式にアンチ平家の豪族達が集結、
鎌倉入りを果たしました(^ω^)

あー、話は前後しますがこの時代、
安房国内でも長狭さんという豪族だけは伊勢平氏側についており、
頼朝さんが安房国に入った折、夜襲をかけようとしたようです
ただそれは事前に察知され、アンチ伊勢平氏(アンチ平家)軍団で一気に滅ぼしたと・・
この場所は、鴨川市の一戦場公園のあたりですねー

房総の頼朝伝説

房総の頼朝伝説

  • 作者: 笹生 浩樹
  • 出版社/メーカー: 冬花社
  • 発売日: 2013/07
  • メディア: 単行本





    まーなにはともあれ、この本を読んでると、
    本当に安房をはじめとした房総人は、

自分も含めて頼朝さんが好きなんだよなーと感じますわ、
また、自分にとって、よく見た風景や遺跡が写真で載ってますし、
今イチ知らなかった史跡の由来なども詳しく書かれています


あー、そして以下、雑談!
こんな荒くれた時代の狭間に、自分の直系の先祖はどこにいたか?
実は、この伊勢平氏(平家)についてた長狭六郎常伴さんの領地と隣接する境界線、
「三原郷」と呼ばれる、南北に長いこの里の領主をしてました
領主といっても、安西さんや丸さん、神余さんらが表向き仕切る安房国、
その中の小領主として、ちょっと前に相模国の佐奈田村(現 平塚市真田)から、
土着の佐奈田の本家総出で引っ越してきたようです
領地はかなり広くはなりましたが、ある意味「敵」との最前線に布陣したんですよねー
頼朝さんが安房に渡ってきた時に、ウチがどういう動きをしてたかなどの詳細な話については、
郷土史にも、ウチの口伝や家伝にも特には見当たりませんが、
時代的にも、この楔(くさび)を打ち込むような防波堤のような布陣をすること自体、
意味がないわけはないでしょうね、
また、ウチの先祖が三原郷にに突然布陣して早々に、城(館城)や菩提寺、諏方神社建立など、
どう考えてもお金のかかるものをホイホイ作ってます
この辺りも、三浦党全体からの、資金を始めとした様々な手厚い協力・援助があったんじゃないかな?とか

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まー、そんな三原郷に引っ越してきた我々佐奈田さん一家(現在は眞田/真田表記)ですが、
三浦党の桓武平氏の一豪族として、敵対関係にある長狭さんの真ん前に立つことで、
長狭さんとも何度か和平交渉じみた話し合いの場にも同席してたんじゃないかな
時には一緒に彼ら伊勢平氏側に与する豪族達と酒を呑み宴を催してたかもしれない
隣接する長狭氏本人とは、時には和田浦や江見、太海の磯場で、
一緒に魚釣りでもしながら世間話(密談?)でもしてたかもしれない
だって、長狭さんからしたら、ウチは三浦党(彼から見て敵対勢力)最前線の土豪なんで興味津々、
巧く長狭さん側に取り込めれば、敵対勢力の三浦党のフォーメィションを崩せて、
長狭さんらにとっても武がよくなるわけですしねw
余談ですが、こういうパワーバランス的な考え方は、大人になり、そして社会人になり、
実際にそのようなビジネス上の駆け引きを多々するようになって、
実感としてよく分かるようになってきましたw
相手は大豪族の長狭氏、
その最前線にいたウチの先祖なら、
むやみに潰されないように案外「お隣さん」としてソツなくシタタカに、
どっちともつかない態度で、ヤンワリと交流してたんじゃないかな、とか、
で、しっかり長狭さんの動向だけは追ってるとwww

まー、以下、あくまで空想だけど、
長狭さんが頼朝さんに夜襲かけようと企てたのをチクったのは
案外ウチの先祖かもなーなんて思ってますwww

ある日、尾根道を伝い、
三原郷に不意に遊びにきた長狭さんは言いました

源吾殿、
ワシは清盛様への手土産に、
頼朝公の御首を頂戴する所存じゃ、
源吾殿もワシらにつかれよ!
さすれば房州も安泰、
佐奈田(眞田)の家も
未来永劫安泰であろう!( ー`дー´)キリッ

とか・・

で、先祖
(お!ビジネスチャンスの(゚∀゚)ヨカーン!)
うむうむ、
長狭殿の(^ω^ ≡ ^ω^)おっおっおっしゃる通りです
がしかし、しばし猶予をくだされぃ!
あーちなみに、
何時にどこで待ち合わせですか?(; ・`ω・´)

まで聞いといて

そして時が経ち、いざその日の黄昏時、、
長狭さんは、頼朝さんがいるとこに兵隊動かしながら
「サナダのヤツ、マジ来ねーなおい(´Д`)y-~」とか思いつつ夜襲に向かう面前に

先祖 待ち合わせ場所に着
長狭殿ーー!来ましたー!ヽ(=´▽`=)ノ

長狭氏
おぉ!佐奈田殿!!
やはり来てくださったか!!(゚∀゚;)=3 


先祖
お友達もいっぱい連れてきましたーー!
ワーイヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノワーイ


長狭氏
あ!?!?・・・源氏の白旗
佐奈田どの あぁーーーーっ(´;ω;`)


(突然)三浦義澄氏 乱入
長狭六郎常伴殿とお見受けした、お命覚悟!!

長狭氏
ひーーーーっ!
サナダのウラギリモノーーーー!!


先祖
すいません、娘が三浦の家に嫁いでるんで
やっぱムリです(*´σー`)エヘヘ

・・・なーんてねw
さすがにここまでギャグマンガみたいじゃないだろうけど、
様々な情報が錯綜している渦中、
意外と近いものはあったんじゃないかな?とか勝手に想像して楽しんでおります
※この先祖と長狭氏とのやりとりは史実じゃないです、私の勝手な空想です念のためww

あー下らないヨタ話にお付き合いいただき有難うございました(-人-)


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「発坂峠の戦い」いすみ市(旧大原町)の昔話 【転載】 [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

一つ前の日記同様、中世の終わりの戦国時代、
その時代に正木家と里見家に一族の多くが仕えていたことからも、
そのウチの先祖が絡んでいるであろう戦の話です

戦なんて、今じゃ全く考えられない野蛮さですけどね、
でも当時は日本中がそんな感じだったから、誰もが戦わなくちゃ生き残れなかった時代なんですよね

まぁウチはこの点、案外珍しく、平安時代から鎌倉時代への過渡期や、ここで挙げる戦国時代から江戸時代への過渡期の間も武士(豪族/土豪)してた家であったようで、
故に口の悪い人からは「人殺しの家!」とか言われますが・・・(;´∀`)
何も戦ってたのは武士ばかりじゃなく、その時代は里のみんなも揃って武器持って戦ってたんですよねー
そういう点では、これらの時代を生き残った人々は、早々「人殺し」と縁のない人はいないんじゃないでしょうかね

-----------------------------------
発坂峠(ほっさかとうげ)の戦い

 県道大多喜・大原線、佐室地区に『発坂峠』と書かれた史蹟案内板が建てられています。
日頃は、見逃してあまり意識することもありません。しかし案内板によって遠いむかし、房総の兵たちが激しい戦をくりひろげたことを 知ることができます。
この『発坂峠の戦い』は、『房総治乱記(ぼうそうちらんき)』や『房総(ぼうそう)軍記(ぐんき)』にも語られています。
             

 むかしむかし、今から約四百年ほど前のことです。この辺り一帯は、万木(まんぎ)の土岐(とき)氏と安房の里見(さとみ)氏が大きな勢力を誇っていました。
そのため土岐(とき)方と里見(さとみ)方は、しばしば小さな争いをくりかえしていました。
 天正十七年(一五八九)、里見(さとみ)氏の指揮下に有った長南(ちょうなん)城(現長南(ちょうなん)町)が土岐(とき)氏に攻められ大敗しました。
この知らせは、すぐに安房城主里見(さとみ)義頼(よしより)に伝わりました。知らせを聞いた義頼(よしより)は、激怒しました。
「ええー、土岐(とき)は親子(おやこ)二代にわたって我が里見(さとみ)家にそむいて・・・・・万木(まんぎ)城に一気に攻め入って、降参させねばならぬ・・・」
 万木(まんぎ)城攻略の命を受けた安西遠江守、山川豊前守は、総勢二百五十騎を率いて、安房国から上総(かずさ)の国に向かいました。
里見(さとみ)軍が攻めてきたことを聞いた、万木(まんぎ)城主土岐(とき)頼春は
「敵がせめて来るというのに、城で待っているとは不本意なり。ええー、途中で里見(さとみ)軍をむかえ、一戦まじえようぞ」
「里見(さとみ)の兵など朝飯前にやっつけてやるぞ」
六百騎を率いて、保坂峠に向かい、陣をひきました。
             

 一方、土岐(とき)軍が城を出たことを聞いた里見(さとみ)勢は
「城を出るとは願ってもないことだ・・・。土岐(とき)勢の後部を断ち切って、前後よりはさみうちにしようぞ」と、
三百騎をひそかに久保(くぼ)村(現御宿町久保(くぼ))に回しました。
 これを近くの百姓たちがみつけて、久保(くぼ)坂峠に陣を構える土岐(とき)軍に知らせました。
これを聞いた土岐(とき)頼春は
「みなの者よく聞け。これよりこの陣をひきはらい、発坂峠に向かう。そこにて里見(さとみ)勢をむかえうつ・・・・・」と、久保(くぼ)坂峠の陣をひきはらいました。
              

 里見(さとみ)軍は、そうとは知らず、夜明けとともに久保(くぼ)坂峠に向かいました。土岐軍の姿は見えません。
「さては土岐(とき)軍、里見(さとみ)軍がこわくなって逃げ出しおったか・・・・。追いうちして、一気にせめつぶしてしまえー」
と、万木(まんぎ)城を目指して、進撃しました。
 里見(さとみ)勢がちょうど、発坂峠にさしかかたときです。峠の頂に『桔梗(ききょう)の紋』を描いた土岐(とき)方の旗が、林立しているではありませんか。
里見(さとみ)勢は、動転して立ち止まりました。しかし、ややしばらくあって
「ものども進め。ひるまず、一気にかけのぼれー。」
安西遠江守の号令が、かかりました。そうすると
ウオー ウオー・・・
ウオー ウオー・・・
と、いうかけ声とともに、太刀を抜いて、峠道をかけ登ります。しかし、峠からふってくる弓矢に、あたりは血の海。
草のにおいのただよってっていた峠道は、またたくく間に血のにおいにかわってしまいました。
 やがて、里見(さとみ)勢は力つき、退散してゆきました。
この時の戦士者、万木(まんぎ)勢死者十六人、里見(さとみ)勢百八十人といわれています。

 里見(さとみ)軍の折れた弓や太刀をうめた所が、『弓折塚』と呼ばれています。
また『矢玉』『矢中』などの地名も、近くに残っています。
峠には、土岐(とき)の紋『桔梗』の旗を立てたといわれる、『旗立山』という地名も今に伝えられています。

おしまい



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「朽打塚(くちうちづか)」御宿町の昔話 【転載】 [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

中世の終わりの頃の、所謂戦国時代の頃、自分達の先祖は、安房の土着武士で、
正木氏や里見氏の重鎮及び有力な家臣団として、一族の多数が仕えてました
そしてこの時代の房総南部は、その正木氏や里見氏が東上総に進出を図ろうとして、各地で戦をしていました
以下はその時代の、御宿町に伝わる昔ばなし、
多分自分らの一族も、誰がしかは出陣してたんじゃないでしょうかね

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朽打塚(くちうちづか)

 御宿町(おんじゅくまち)の高山田地区(たかやまだちく)につたわる話だ。 
 むかし むかし。夏も終わろうとしているころであった。
野原で子どもたちが「戦(いくさ)ごっこ」をして遊んでいた。
ふた手に別れ、木でつくった刀や弓で 
エイヤー 
ソレー カカレー 
・・・・・・ 
大声を出して遊んでいた。 
 やがて、陽が西の山にかくれ、真っ赤な夕焼(ゆうや)けが、空一面に広がった。
真っ赤な空に、真っ赤な雲がたなびいていた。美しい赤をとおりこして、不気味な赤い夕焼(ゆうや)けであった。 
その時、林から太鼓(たいこ)の音が聞こえてきた。 
ドンドンドン 
ドンドンドン 
・・・・・・ 
太鼓(たいこ)の音はリズミカルにひびき、大きな音となってどんどん近づいてきた。 
ドンドンドン 
ドンドンドン 
・・・・・・ 
 子どもたちは、あっけにとられ、その場に立ちすくんでいた。 
しばらくすると 
「木のかげにかくれろー」 
年上の少年がさけんだ。太鼓(たいこ)の音と反対の林をめざして必死(ひっし)に走った。 
木のかげに、身をかがめてみまもった。 
 すると、 
ワーッ ワーッ 
ワーッ ワーッ 
・・・・・ 
と、いう声があがったかと思うと、鎧(よろい)・兜(かぶと)を身につけ、刀や槍(やり)、弓を持った武士(ぶし)の一団があらわれてきた。武士(ぶし)の一団はふた手に別れ、 
「ええ、われこそは安房(あわ)の住人、里見(さとみ)の家臣(かしん)・・・」 
「ええ、こしゃくな。われこそは上総(かずさ)の住人、万木(まんぎ)城の・・・」 
・・・・・・ 
と、大声で怒鳴(どな)りあう。武士(ぶし)たちの背には幟(のぼり)がついていた。
一方の団は里見(さとみ)氏の紋所(もんどころ)、もう一方は土岐(とき)氏の紋所(もんどころ)である。 
 両方の兵は入り乱れて大合戦を始めた。怒鳴(どな)り声、陣(じん)太鼓(たいこ)の音、
刀と刀、槍(やり)と槍(やり)のぶつかる音、弓矢が風をきってとぶ音、きずをおった武士(ぶし)の悲鳴。
あたりは騒然(そうぜん)となった。
子どもたちは、ワナワナふるえながら見ていた。おそろしさに、両手で顔をおおう子もいた。 
 やがて、たおれる兵がたくさん出てきた。草や木に血が雨のようにふりかかる。
小さい子どもは恐怖(きょうふ)のあまり 
「こわいよー、こわいよー」 
ウェーン、ウェーンー 
ウェーン、ウェーンー 
泣きだした。年上の少年は、なく子の口をおさえ 
「こわくない、こわくない・・・」 
「泣かないで、だいじょうぶ、だいじょうぶ」 
と、なだめる。 
 そうこうしている間に、戦(いくさ)がうそのよう終わり、原っぱはもとのように草と木ばかり。
鎧(よろい)や兜(かぶと)を身につけた兵も、幟(のぼり)を背にした兵の姿もない。
陣(じん)太鼓(たいこ)の音も兵の声もぴたりとやんだ。
血にそまった草や木も、もと通り、一摘の血もついていない。
先ほどの戦(いくさ)の名残は、色あせ朽ちはてた一本の弓矢が落ちているだけだった。 

 子どもたちが目にした光景こそ、『房総(ぼうそう)志料(しりょう)』に出てくる里見(さとみ)氏と土岐(とき)氏の戦いだった。
『房総(ぼうそう)志料(しりょう)』には「御宿村(おんじゅくむら)高(たか)山田(やまだ)区の山中に、朽打塚(くちうちづか)と言はれて、昔、里見(さとみ)、万木の古戦場だったと言はれるところがある」と出ている。 


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