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中世から近世、小豪族のウチ「房総 佐奈田/眞田」先祖達の生き残りの歴史 [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

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※マーキングされている部分が朝夷郡(朝比奈郡)


ウチの祖先は、三浦党(三浦一族)で発祥が相模(神奈川県平塚市)の、いわゆる小豪族(土豪)の家なんですが、 なんでそんなウチの先祖が平安時代末期に、相模から房総の安房に来たか?

当時の海の街道の拠点確保のため、 浦賀水道(東京湾)を挟んだ房総の安房、朝夷郡(朝比奈郡)に進出し、勢力拡大を模索していた三浦党全体のサバイバル戦略が第一目標なのは当然で、 その進出に際し、長狭郡(現、江見と天津小湊を抜いた鴨川市)の豪族である長狭氏ら伊勢平氏に付いた側へのけん制、あわよくば駆逐する機会を窺っていたのだろうというのと、
そして、大和時代から奈良時代にかけての古代豪族「忌部氏」や「平群氏」の末裔と言われる豪族、丸氏達や安西氏に対しても、三浦党のけん制的な意味合いもあったんじゃないかと・・・
※丸氏は、伊勢 or 板東、その他、計四つある流れのいずれかは不明ですが、元「平氏」との話もあります

で、もう一つの理由としては、元々住んでた相模国の大住郡 岡崎郷 佐奈田村(眞田村/真田村)のある、岡崎郷の領主、岡崎義実さん達との、それなりに深い関係も理由にあったんじゃないかとも思います
そして、のちに「佐奈田与一」と呼ばれることになる岡崎義実さんの子供の一人である義忠さんに佐奈田の地を明け渡し、ウチの直系の先祖達は、安房国に渡りました
・・・まぁこの辺りは軽々しく話すと、研究家の多い歴史的な著名人達を侮辱することになるかもしれず、多少曖昧にしときますが、、

ただまぁ結果から言えば、房総に渡った我々は、今の時代まで家名を着実に残しつつ、子孫をこの地に根付かせ、こうして現に生き残れました

参考までに、これら相模国に関する簡単な口伝が幾つかあります(以下は、2つで一文なのかな?)

我らは相模から来た(我々は、相模国から渡ってきた)」
我らは、三浦の佐奈田ぞ(我々は、豪族の三浦党の佐奈田/眞田である)」

海を隔てた安房国の三原郷に、開拓領主としてしっかり根付いた後も、遠い先祖達は、相模国の佐奈田の地を懐かしく思っていたのかもしれませんね
現在と違い、これだけの距離だと「ちょっと里帰り」とか出来ないでしょう
一族郎党を引き連れ安房国に渡ったと言われている佐奈田源吾さんは、故郷の相模国の佐奈田の地を、その残りの生涯で、二度と踏むことはなかったんじゃないでしょうか

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まぁ話は多少戻って、、
新たな領地となった三原郷の東側で、その領地が隣接していた大豪族の長狭氏に関してですが、
源頼朝さんが石橋山で惨敗、安房に落ち延び、その後、上総氏の協力を得るため、安房を東進した際に、長狭氏の夜襲を受けたわけなのですが、
これに対し、三浦義澄さんらと共に、安房の三浦党をはじめとする小豪族が束になり、鴨川の一戦場(いっせんば)界隈で大豪族の長狭氏を滅ぼしています
史実には明確に残ってませんが、その長狭氏に対し最前線の防波堤のような布陣をしていたウチの祖先、
その三浦党のウチの先祖が、 普通に考えて出向かない訳がありませんよね
何より三浦党全体で味方をしている源頼朝さんがいらっしゃったんです、「敵=長狭氏」と接したこの地の状況を、もっとも理解しているであろう先祖が、呼ばれないわけはありません、
まー、行きたくなくても行かざるをえない状況かと思いますw
その軍勢は、おそらく江見の山奥、曽呂の辺り(県道89号線?)を下り、鴨川市の嶺岡トンネル付近にある一戦場に向かったんでしょうか
もしくは、昔の道は尾根伝いだったことから、嶺岡林道を下って一戦場までいったのかな?
しかし普通に史実の通り、長狭街道を東進したのかな?
でもここで長狭氏が全滅したことで、目の前の巨大な敵がいなくなり、当時の先祖達は、少しホッと出来たのかもしれません

そして三原郷の西側で、領地が隣接する丸氏との関わりは、、
彼らが地頭(郡の長)である同じ朝夷郡内(現 江見を含む南房総市の東側一帯)で、 ウチの先祖は三原川周辺を中心に長狭郡との境界である江見界隈までを領地化し武装強化、城山や菩提寺を造り、諏訪神社まで建立しておりますが、 特にその丸一族とは大きな衝突もなかったようで・・・、
丸氏の住まう丸山川界隈と、こちらの三原川界隈、その間の尾根を挟み、自分らの先祖が土着しだした平安時代末期から、その後350年の長い間、非常に仲良くやってたようです、南北朝時代から室町時代にかけては、一緒になって近隣の郷に進出を図ってたりしてますし・・・

しかし戦国時代に入ると、丸氏の一族である境井(さかい)弾正兄弟が、下克上の波に乗って、ウチの先祖達の拠点であった三原城を占拠した頃から、丸氏との長かった蜜月の時代は終わりを告げたのかもしれません、 
時代は、大永・享禄の頃なんで西暦1525年前後、この「境井兄弟 三原城占拠事件」に対し、当時のウチの先祖達が取った「策」とは、直前に三浦半島から渡ってきた三浦介時高(もくは三浦義同(道寸) )の後裔といわれる「安房正木氏」の味方に着くことでした
これにより最終的に、境井兄弟達一党は、正木氏とウチの先祖の軍に駆逐・殲滅されています
この後、三原城は、安房正木氏の拠点となります
まぁ結果から言えば「大切な城や領地を差し出して、強者に組み入れてもらう(勝ち馬に乗る)」という荒業を行ったわけですね
全てのものは栄枯盛衰、戦国時代も後期の頃には、ウチの一族は、かなり疲弊していたのでしょうね、
だから城を新参者に不法占拠されたりするわけで・・
郷土史から伺う限り、3~400年の長きに渡り仲の良かった丸氏自身も、このような暴挙を行う一族郎党の境井兄弟を抑えられなかったわけで、、
丸氏の衰退も、この事件の頃なんじゃないでしょうか

そしてこの騒動が良い意味できっかけになったようで、この後、自分らの先祖達は、正木氏や里見氏の重臣/家臣団として多数が重用されることになり、眞田(佐奈田)本家や本家筋を筆頭に、朝夷郡の三原郷から出て、勝浦城や大多喜城(小田木城)、館山城など、安房や東上総一帯の様々な城に移っていきました

また、この戦国時代、房総半島では、上記の正木氏、里見氏が、 甲斐武田氏の庶流である真里谷武田氏や土岐氏、北条氏などと戦いまくっておりまして、 
お陰で房総半島の安房地域や夷隅郡を始めとする上総地域、下総地域には、その当時の古戦場が無数にあり、
いまだに落ち武者の幽霊が出るだとか、武士の呪いがどーたらこーたらとかの、オドロオドロしい当時の戦乱の伝承が、様々な地名や昔ばなしとなって残ってたりしてます (千葉県市川市 里見公園の「夜泣き石」とか有名かも)
ウチの先祖達もこの時代、上記の通り、正木氏、里見氏に重用されていたということから、これらの戦のほぼ全てに、常に自分ら一族の誰がしかは参加していたものと思います
そんな戦いの日々は、徳川家康の重鎮である本多忠勝が、大多喜城や勝浦城に攻めてくるまで続きました
(正確には惣無事令に伴う、里見氏の領地「上総」の没収、城の明け渡し)

本多忠勝氏による武装解除の後は、一族の主だったものは故郷である三原郷、今の南房総市和田町に戻りました
そして三原郷の「真浦」地区から新たに分村化させた地域「布野」の山奥にて、本家・本家筋などが帰農し、江戸時代に入って以降から明治の頃まで、ひっそりと隠れるように暮らしました
ちなみに、この辺りには、里見氏や正木氏の伝承を持つ家もいくつかあり、お陰で周辺地域から「平家の落人村」と、いまだに言われているようですw
まぁウチのことだけで言えば、平家(伊勢平氏)じゃなく、それに対抗した平氏、正確には桓武平氏なんで、似ているようで実は敵味方、真逆だよなーと、
そして落人、これもまぁ江戸時代に入って早々、一族の主だったものが揃って帰農したような形なので、まぁ微妙に当たってるような外れているような。。
そもそも「平家の落人村」とは、源平合戦で負けた伊勢平氏や、それに味方する側が、落ち延びて山の奥深くに隠れ住んだ里だろうになー、
自分ちは、代々この三原郷の当主(といっても、まー規模から言ったら村長か町長レベル)の家系で、そこに戻ってきただけなのに、、
地元の人々からは酷い言われようだな、とw

・・と、ここまで、房総佐奈田(眞田)、三原佐奈田(眞田)、三浦佐奈田(眞田)と言われる、ウチの一族の概略をツラツラ書いてみましたが、その本家や本家筋それぞれの家にも、それぞれ独自の伝承があります
例えばウチの場合などは、水戸黄門のお祖母さんである「お万の方」との伝承があります、
彼女が勝浦城からの脱出(救出?)に際し、直系の先祖が貢献したということで、
正木さんからそのお礼として、拝領紋(褒美として新たにもらった家紋)を頂いています

ちなみに武士というと聞こえがいいからか、レキジョさんをはじめ、
世間的には異様にプラスイメージでとられがちですけど、
こんな自分からしてみたら
「夢見てんじゃねーぞ!、いっぺん刀で腕でも斬り落としてもらえやオラー!(# ゚Д゚) <根が荒くれ豪族 」
・・とかマジに思いますw(基本クチが悪いです)
明らかに江戸時代の優雅で呑気なサラリーマン武士の物語や、ゲームの戦国バサラの見すぎでしょう

武士は、地域の長である以上、その共同体を守るという大義があります
それは里の人の命の上に常に立ち、それに責任を持つということ、
そして時代的には、敵対する多数の人々の「血」を、まさに糧にして生き抜いてきたという側面もあります 
今じゃ全く考えられない野蛮さですが、当時はそうするしかなかったんですよね
勿論相手方だって、家族や大切な故郷があり、守りたいものが沢山あったに違いありません
そんな相手方からしたら、自分らはストレンジャー以外の何者でもなかったでしょう
しかし、そんな相手を殲滅しなければ、こっちがやられるんですよね
こっちにとっても彼らはストレンジャー
当然こっちにだって、守りたいものは沢山あるんです(´・ω・`)
だから最初は話し合い、出来るだけ平和裏に解決を願い、、
しかし今の時代とは違い、第三者機関や司法権力などが最後までしっかり仲介に入ってくれるなんて、
そんな甘っちょろい世界じゃありません
少なくとも平安時代末期や戦国時代などの歴史の大転換期とは、誰の助けも早々期待できない
そんな「自分らの身は自分らで守るしかない」時代、、
だからお百姓さんから漁師まで里の者みんな揃って、最後は武力行使するしかない、
今よりずっと沸点低く武装蜂起し殲滅しあう、本当に「修羅」の時代だったんですよね、
武士階級の人々は、そんな里の代表者であり、里を護る尖兵だったと・・
まー何にせよ今と比べたら、少なくとも「人」の世じゃありませんな
ロクでもない野蛮極まりない世界です

風光明媚で気候温暖、まるでパラダイスのような南房総は、
意外にもそんな「ツワモノどもの夢の跡」だったんです

あーちなみに房総の南部に住んでた頃、
丸、土肥、畠山、佐久間、正木、安西、安東、東条、佐原という、
案外味方側だった名字の人達ともよく出会う反面、
武田、土岐、槍田、北条など、その昔、終始敵対してた一族と名を同じくする人達ともよく出会いました
まぁでもみんな案外仲良く過ごしてきましたけどねw
今思えばああやって出会えたのも何かの縁なんだろうなぁ…
今の時代になって仲良くできて、
お互いのご先祖さんも、さぞや喜んでくれたこったろうて( ^,_ゝ^)

【関連日記】
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【雑談所】やる夫が真田家に生まれたようです 雑談所その10 【2ちゃんねる より抜粋】
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[中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]カテゴリ一覧
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