SSブログ
房総半島 外房 大多喜町 ブログトップ
前の5件 | 次の5件

親孝行な麻生利器(あそうりき) 大多喜町の昔ばなし [房総半島 外房 大多喜町]

あー、昨日は我が姉弟の法要で房総南部に寄り、
そのついでで、色々地域の伝承ごとの場所を回ってきました
で、これはそのひとつ、
南総・外房エリアに属する町「大多喜町」で、親孝行な「麻生利器さん」のお墓です
麻生利器さんの人生は、今も町の人に語り伝えられているそうです
以下、地域の伝承をまとめた書籍から抜粋しました

----------------------------------
親孝行な麻生利器(あそうりき)


 大多喜町新丁(しんまち)に、「妙福寺(みょうふくじ)」というお寺があります。この寺の境内(けいだい)に、墓石一面に、びっしり漢字の書かれたお墓があります。お墓には、こんな心あたたまる話が伝えられています。

149_2059000929_25large.jpg

 江戸時代のことです。大多喜は、房総一の城下町として栄えていました。城下は、刀や鉄砲をつくる鍛冶町(かじまち)、布を染める紺屋町(こうやまち)、商人が集まった久保町(くぼまち)など、職種ごとに別れて住んでいました。さらに、城下のまわりには田や畑が広がり、お百姓さんが住んでいました。このお百姓さんの一人に荘吉(そうきち)という若者がいました。荘吉は小さい時に父を亡くし、母と二人で貧しいながらも幸せに暮らしていました。
  ある秋のことでした。たん精こめて作った稲が収穫の時期をむかえました。稲は黄金色に実をつけていました。
「今年は豊作だ」
「年貢(ねんぐ)をおさめることができる」
「庄屋さんから借りていたお金も、返すことができそうだ」
「刈(か)り入(い)れは、いつにしようかね」
「台風がくる前に刈り取ったほうがいい。明日にも刈り取ろう」
「いやいや、このところ晴天つづき。もう少し陽に当てたほうが、穂の落ちもいいだろう・・・」
「・・・・・」
荘吉と母は、収穫の季節を待ちわびていました。
 ところが、このよろこびもつかの間。いちばんおそれていたことがおきたのです。昼すぎに降ってきた雨が、夕暮れ時には本格的な雨に変わりました。そして夜になると、一段と激しくなりました。野や山に降った雨は夷隅川(いすみがわ)に流れ、やがて大水となり、あふれて田や畑は水びたしとなりました。荘吉と母は、ただぼう然と立ちつくしていました。
「ああ、どうしよう」
「これでは、年貢(ねんぐ)も、借金(しゃっきん)も返せない・・・」
なげき悲しむ母と子でした。

 途方にくれる荘吉でしたが、なげいても、ぐちをいったところでどうすることもできません。借金するしかありません。すでに借金をしています。さらに借金を重ねるのです。なかなか、お金を貸してくれる人はいません。しかし、「荘吉が江戸に出て働く」ということで、久保の商人からお金を借りることができました。
 年老いた母を一人残して江戸に行くのは心配です。そこで、かねてから思い
をよせていた隣の正立寺村(しょうりゅうじむら)の百姓の娘、利器(りき)を嫁にもらい、母のめんどうをみてもらうことにしました。そして江戸に働きに行く決心を母に話しました。
「このままでは暮らしてはいけない。江戸に出て働く」
「江戸へ・・・」
「江戸へ行って働けば、大金が稼げる」
「荘吉、貧しくてもいい。苦労してもいい。おまえと一緒にいるほうがどんなにしあわせなことか・・・」
「わしは、年をとってしまったし、働くこともままならない」
涙ながらに話す母でした。そんな母を
「心配しなくていい。おっかさんのめんどうは、嫁の利器が・・・」
「江戸で働き、金を送る」
と、説得しました。母も荘吉の決心の前にはどうすることもできず、江戸行
きを承諾しました。

 明日、江戸へ出発するという夜でした。利器はそまつながらも、心のこもった食事を用意して、親せきたちと別れの宴をひらきました。つらい気持ちをおさえて、宴の席にならびました。
 やがて、親せきが帰り、母も床につきました。いろりの火も消えかけようとしていました。荘吉は残り火に照らされている利器の顔をみつめ、いいました。
「利器、おっかあをたのむ。おっかあは、この荘吉を生んだ、この世でただひとりのおっかあだ。ずっと、貧しい生活にたえてきた。どうか、おっかあのめんどうをたのむ」
「・・・・」
「年老いた親がふびんでならない。しかし、利器が一生懸命、親孝行してくれると思うと、おれも働きがいがあるというもんだ・・・。くれぐれもたのむ・
・・」
荘吉のことばに、利器はただうなずくばかりでした。

 荘吉が江戸に旅出った後、利器は一生懸命、姑(しゅうとめ)につかえました。朝は早く起きて朝食の世話をし、洗濯してから野良仕事にでかけました。仕事が終わって帰ってくると、夕飯のしたくをし、風呂をわかし、母を入浴させました。姑は酒とそばをたいそう好みました。貧しい家計の中から、母の大好きな酒とそばを買ってきては、食卓にならべました。姑は献身的な利器にたいへんよろこびました。近所の人たちも
「利器は女の鏡だ」
「あんな働き者で親孝行な嫁はめずらしい」
と、感心しました。そのたびに利器はいいました。
「いたらない嫁で・・・」
「わたしは荘吉の嫁です。荘吉を生んだおっかさんにつくすことはあたりまえです・・・」
 また、江戸の荘吉から金が送られてくると
「荘吉さんからお金が届いたけれど、どのように使ったらいいでしょうか」
と、姑に相談する利器でした。すると
「家の物はそろえなくていい。それより親せきの者や荘吉がお金をかりた人たちに礼をしてくだされ。なお余裕があったら、万が一に備えて貯えをしてくだされ」
というのでした。利器は、母のいう通りに親戚(しんせき)やお世話になった人たちに金を返し、残りを貯えました。
 念仏講があれば、足腰が弱り、歩くことが不自由になった姑に代わって出かけ、一生懸命近所づきあいにはげむ利器でした。
 
 やがて、年老いた姑は床にふすようになりました。利器はそんな姑のめんどうをよくみました。夜中に姑がせきをすると背中をさすり、熱をだすと冷やしてやりました。近所の人たちは
「利器はほんとにえらい。おっかさん思いの、いい嫁さんだ」
と、これまで以上にほめました。
 利器の看病のかいあって、姑は七十八歳という天寿をまっとうすることができました。亡くなった後も利器は朝夕、仏前に花とお供え物をあげ、手をあわせめいふくを祈りました。

 やがて、江戸から荘吉が帰って来るという便りが届きました。
「荘吉が帰って来る。これからは一緒に暮らせる」と思いました。しかし、荘吉は寝る間も惜しんで働いたので病をわずらっていたのです。そのため、ふるさと大多喜に帰って来たのでした。病(やまい)をわずらった荘吉が帰ってくると、利器は姑を看病したようにまた荘吉を看病しました。
「すまないねえ、利器。おっかあが世話になり、今度はわしが。苦労のかけっぱなしで・・・」
こういう荘吉に利器は
「いえ、いえ。わたしは、こうしてあなたといっしょに暮らせることが幸せです。早くよくなってください・・・」
といって、前よりも、いっそう働きました。
 荘吉の病は一時、良くなりましたが、悪化し、とうとう四十三歳の春に亡くなってしまいました。
 また、利器も看病疲れと、愛する夫、荘吉を失った悲しみから三ケ月後に亡くなってしまいました。三十九歳でした。大多喜はもちろん、となり村まで利器の孝行は知れわたりました。
 やがて、この利器の孝行ぶりは大多喜藩(おおたきはん)の役人そして藩主(はんしゅ)の耳にも入りました。藩主は利器に感心し
「利器の孝行ぶりは世の見本である。利器の行いをいつまでも語り伝えるために利器の墓石にその業績を記せよ」
と、家来に命じました。
 それで、妙福寺にこの「孝婦麻生利器(こうふあそうりき)」の墓碑が建っているのです。建てられたのは利器が亡くなった二年後、寛政十二年(一八〇〇)のことです。
 妙福寺の境内にある利器のお墓には、今もなお花や線香がたえません。 

おしまい



149_2058999311_205large.jpg

----------------------------------

妙福寺
千葉県夷隅郡大多喜町新丁125

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:地域

大多喜町の戦前・戦中の写真(´・ω・`) [房総半島 外房 大多喜町]

あー、最近は大人気の朝のNHKドラマ「ごちそうさん」でも、第二次世界大戦の時代に突入してますね

探してみたら、ウチにもその時代の写真がワサワサありました
千葉県の房総半島南部(南総)の町である大多喜や、その周辺のモノです
まぁ整理がてら、それら画像の中の一部をUPしときます

sanada-family01-1-1.jpg
これは明治後期の清澄山系での、学生の行軍の写真かと・・
「行軍」とは、今でいう遠足ですね

sanada-family04-12.jpg
大多喜町の昭和10年頃の風景、この時代、アスファルトの道なんてありゃーしません(゚Д゚)
場所は多分ですが、上原辺りなんじゃないかと

sanada-family07-1-1.jpg
昭和11年  大多喜小学校 前校舎新築落成の際の記念撮影と思われるもの
当時、小学校一年生の叔父さんが写っている写真

sanada-family09-1-1.jpg
大多喜小学校の裏手か、大多喜町 船子の辺りと思われる小学生の集合写真
背後に木原線(現いすみ鉄道)の線路が見えます、みんな見事に坊主頭ですね(^ω^)

sanada-family04-1-1.jpg
当時(戦前)の警察官

sanada-family06-1-1.jpg
「勤労報國」という旗をかかげ、パルプなどを作る勤労奉仕に参加している集団の写真と思われます
なにせ解説の手書きの文字が、昔の筆跡で、今の時代の私らにははっきりと解読できず・・(;´∀`)

sanada-family13-1-1.jpg
大多喜高女(高等女学校)四年生による、老川地区での炭運びの様子 やはり勤労奉仕だと思われます

sanada-family12-1-1.jpg
同じく大多喜高等女学校の勤労奉仕の様子

sanada-family08-1-1.jpg
竹槍訓練の様子ですね、画像はむっちゃ良くないです、これでも復旧させたほう(´・ω・`)

sanada-family08-1-2.jpg
これも竹槍訓練の様子、これも画像がよくないですね(´・ω・`) 

sanada-family15-1-1.jpg
学徒動員ですね
/)`;ω;´)


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:地域

大多喜二八市(にっぱちいち)とレンゲ祭り そして圏央道は高いだけだった( ;∀;) [房総半島 外房 大多喜町]

昨日は実家に顔を出すついでに、
大多喜町で行われる3年ぶりの「レンゲ祭り」を見るため、 
そしてこの前、たけのこ大人買いをした「大多喜カエムたけのこ園」で、
今度は普通に野菜だけを買ってこうと思い、まぁまずは大多喜の街ナカに・・・

そしたら、とんかつ亭有家の前、つまり蕎麦屋のくらやで、なんか団体様が踊ってました
出店もあります
後で知ったんですが、大多喜二八市(にっぱちいち)というのが開催されていたようです
ちょっと車を脇に停めて降りてみようかとも思ったんですが人通りもあり、
ゆっくり車で通過するのみになってしまいましたが、、
なんでも「名物 たけのころっけ」というのがあるようで、
この次は狙って行ってみようと思います( ;∀;)

149_1927717386_214large.jpg

149_1927717385_251large.jpg

そして大多喜レンゲ祭り会場へ・・・
そもそも先に大多喜町の街ナカを通過して、
三又のカエム農園でトマトやらサトイモやらの新鮮野菜を買い込んできてしまいまして、
買い物を終え、そしてようやく逆方向の下大多喜の会場に着いたのは午後4時前・・・

もうお祭り終わってましたわ(´・ω・`)149_1927919510_28large.jpg

149_1927919513_160large.jpg

149_1927919519_80large.jpg

なんでも午後3時で終了だったということで、残念至極(´;ω;`)

まぁプラス思考で考えれば、誰もいなくなったレンゲ畑を独占状態で眺められたので、
これはこれで良かったのかな、とw

そもそもこんなに遅れた原因とは、この日の午前、京葉道路で5台を巻き込んだ衝突事故があったようで、
そのため高速が一時通行不能になっており、
その余波もあり京葉道がエラい勢いで混んでおりまして(;´∀`)

で、新しく出来た圏央道で市原鶴舞インターまで行ってしまえば、多少早くなるんではないかと思い、
急遽東金有料道路経由で、さっそく圏央道を使ってみましたが、
結果からいうと、京葉道路の市原ICで降りて下道使って大多喜を目指すのと時間的に全く変わらずという始末でしてww
まー結局大多喜に着くのは今までになく時間を喰ってしまいましたとさ(´・ω・`)

あー圏央道ですが、東京東部or北部方面から鶴舞インターを目指す場合、

休日割引とETC割引で、湾岸市川から鶴舞まで1,300円、京葉道市川からは1,250円(帰り道で使用)と、
どっちのルートでも片道450円も高くなる割には、走行距離で15~20kmも余計に走らされ、ホント時間差がないです
素直に市原ICで降りた方がお得だったわな~、
まぁいい経験したからいっか('∀`)

ただ、横浜方面からアクアラインを使って大多喜にくる場合などは、
圏央道は非常に利便性があると思いますわ

 


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:地域

山脈(やまなみ)はるか-小さな学校の物語- 大多喜町立老川小学校のお話を読んだ( ;∀;) [房総半島 外房 大多喜町]

山脈(やまなみ)はるか-小さな学校の物語-

少子化のため、この3月に廃校になった、大多喜町立老川小学校の、ありし日々のお話
大自然に囲まれた木造校舎、50人にも満たない児童
どことなく懐かしい雰囲気漂う「小学校」が、そして「先生と生徒」のふれあいが、そこにありました
おまけに辺りは信じられないような大自然!
イノシシやシカ、猿は出るわ、校長室には勝手に野鳥が侵入するわw
巨大な蛇などは頼んでもいないのに学校に勝手に登校してくるわww
本著の中でも語られていますが、
その日常はまるで宮沢賢治の「風の又三郎」の世界です!
BGMは常に井上 陽水の「少年時代(※)」でしょう!!
こんな「昔の日本映画」の中にしかなかったと思われていた日常が、
ついこの前まで、南房総の大多喜町の老川にあったんです

・・・で、読み終わって感想、
なんというか、
とーっても暖かい本です つД`)・゚・。・゚゚・*:.。..。.:*・゚
それ以上の賛美の言葉が
自分には思い浮かばん(´;ω;`)

「南房総」「大多喜」には、
日本の「懐かしい」や「やさしさ」が
現在進行形でいっぱい詰まってるなぁ・・・

著者は、この地域で長年教師を勤め、老川小学校の校長をされていた齊藤弥四郎氏、
文章は、その校長先生の日々の日記、手記のような文面で綴られています
夷隅民話の会発行、定価1,000円
本の体裁は、NPO法人らしい夷隅民話の会が、その多くはないであろう予算で出版しているもののようで、
一色刷りであり、すごくシンプルで質素な形態ですが、
その内容は、昨今の商業主義的なメディアとは一線を引き、著者達のナマの声が聞こえてくるような
非常に心のこもった一冊かと思いました

一般の流通では出回ってないけど、
大多喜町の観光関連施設や、夷隅民話の会公式blogで問い合わせたら多分手に入るかも・・・


149_1923892388_56large.jpg

149_1923892386_40large.jpg


(´・ω・`)つ 老川小学校のGoogle画像検索結果

(´ω`)つ 夷隅民話の会 公式blog

オマケ(・∀・)つ ※井上陽水「少年時代」(しょっぱな広告が出る場合があります)



大多喜町立 老川小学校(現在は廃校)

大きな地図で見る
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:地域

笠森観音さんの帰りに、大多喜町にも寄ってきました(´∀`) [房総半島 外房 大多喜町]

あ~、前の日記で千葉県長南町の笠森観音さんにお参りした後、
大多喜町にも寄ってきました

大多喜町は最近、下記の「いすみ鉄道」がそれなりに知られてます
まぁ昔のキハをレストアするなりして走らせている鉄道で、観光鉄道を目指しているとのことです
しかし去年まで散々テレビに出すぎちゃった感がありますね~
ちょっと個人的にはこればかりで飽きた(´・ω・`)
でもこれらキハが現役で走っていた時代に多感な時期を過ごした、
所謂「団塊の世代」の人達にはそれなりにウケがいいようで、
彼らがリタイアするまではそんな人々のハートをゲットし続けられるんではないかな?
でもそんな団塊の世代の人々もあと5~10年で70代になっちゃうでしょうし、
そしたら遠出なんてしてくれなくなるだろうしな、
それ以降はどーすんのかな?
もっと若い世代向けに初代新幹線とか走ってくれたら面白いかもだけど、
ここは非電化路線だし駅のホームも短いんで、まぁ無理かな
149_1873569915_184large.jpg

大多喜町のディープな面白さとは、その街並みや暮らしの中の懐かしい風習、
そしてこの風土・地勢にこそあると思うんですよね~(´∀`)
ここは戦国時代辺りから上総の国の拠点となった街、そこかしこに古いものがゴロゴロと・・・w
149_1873569918_125large.jpg
149_1873570765_227large.jpg
149_1873570774_103large.jpg
149_1873571121_234large.jpg
149_1873571122_221large.jpg
149_1873570761_38large.jpg
149_1873570769_151large.jpg
149_1873570777_156large.jpg

ちなみに上総の国の大多喜でこれだけ古くてワクワクするモノがそこかしこに溢れています
もう少し南に行けば、もっとゴロゴロ古いモノが転がっていますよw

房総半島は、南に行くほど歴史の痕跡が現在までフツーに生き残ってますです(´∀`)
(自分の縁のある範囲だけかな?)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行
前の5件 | 次の5件 房総半島 外房 大多喜町 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。